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オリジナルの中世ファンタジー小説
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コンサートホールの外で待っていたマナとタイジの元へ、堂々とした毛並みの馬に跨った女性が近づいてきた。
「アカネちゃん!やっほ」
「こんばんは、マナ。よいしょっと」アカネと呼ばれた少女は、鞍から颯爽と飛び降りると「待たせちゃって、すまないね」優しく鼻息を鳴らす馬の鼻頭を撫でた。
「そんなことないよん」マナは親友に会えて楽しそうだ。「そうそう、アカネっちに紹介するね、こいつが前から言ってたボクの召使い、タイジだよ」
「誰が召使いだ!」とタイジ。
「まったくよ、マナ。こんばんは、タイジくん」
タイジは相手の顔、アカネ・ソンカ・トーハの瞳を見た。
マナが評していた通り、全体的に身なりの良い、優等生然とした落ち着いた佇まい。あどけないようでも大人びたようにも見える相貌と、飾りっけのない装いに短めの髪。そこまでなら、一見どこにでもいそうな二十歳前後の地味な女性といえるだろう。
だが、瞳の色だけは不釣合いに、煮えたぎるマグマのような、真紅であった。
閉ざされた炎……
「もう一人の方はまだ着てないのかな?」
「あ、すいません、サキィは、もう少しで…」
「そう。うん、まだ時間あるし、この辺で待っている?」
「ひやぁ、ずいぶん立派な一頭ですなぁ、旦那様ぁ」マナがふざけてアカネの馬をしげしげと「さぞお高かったろうに」
「そっか、マナに見せるのは初めてか」アカネは愛しそうに愛馬のたてがみをいじり「なんだかんだ、久しぶりだったもんね」
「そうそう!アカネちゃんたら、手紙の一つもくれないんだもん」
そもそも今回の邂逅は、マナがたまたま大学の帰り道に皇都の大通りで買い食いをしていたところ、骨董品の買い付けの為に街を歩いていたアカネに、偶然鉢合わせ、二人は久方ぶりの再会を喜び合い、アカネはマナが最近まで東南国に行っていたことなど知らず、マナに至ってはアカネが骨董屋に勤めていることなど、露と知らなかったのである。
二人ともかつては切っても切れぬほどの仲であったが、高等部を卒業してからは、自然と疎遠になってしまっていた。
「うちら、学園中の百合や忍者が嫉妬するくらい、ベストフレンドだったんだべ!」
「そうかなぁ…」アカネは苦笑いをしている。確かに、破天荒なマナに比べたら、彼女の存在は見劣りするくらい、平凡で目立たない印象を受ける。瞳の赤を除いて。
「学校を卒業して、最初は私も大学に入ろうかなって、勉強をしていたんだけど…気がついたら、今の骨董屋が気に入ってしまってね。自分で働いてね、それでそのお金でこの子を買ったのよ。ちょっと高かったけど…ディスィプリンって名前なの、よろしくね」アカネはまるで恋人を紹介するように、大きな馬を二人に示した。
「ディスィプリンたん!そっかー、これがアカネっちのイマカレかぁ~ぐふふ」マナもにやにやしながら馬の鼻に手を伸ばすが、呆気なく拒絶の鼻息を吹きかけられる。「ろっとぉ、浄化されてしまうとこだった。ディスィたんは言っている。すまない、私にはボクに興味がないんでね、と。う~~、でも、この子見てると、先代を思い出すね」
「先代?」
「あ~」アカネは馬の首をさすりながら、眉をくもらせて「悲しい事件だったわ、あれは…」
「でも、あの一件があったから、オラとアカネはベストフレンドになったんだべ!」
「そりゃそうだけど…」黒髪の少女は憂鬱そうな顔をして遠くを見ている。
「よし!サキィくんが来る前に、ボクとアカネちゃんの出会いをタイジに話してやろう!わーい、パチパチ」
夜の外灯の炎が揺れる劇場前で、マナは語り始める。



「アンデンさん…」
アカネちゃんは最初、とっても真面目で面白みのない優等生の典型みたいに見えた。
ボクはその頃、結構くさっていたと思う。精神的にも、一番酷かった時期で、新しい環境にも馴染めず、友達を作る気力すら無かった。
もうちょっと、自分が何のために生きてるか分らなくって、かなり塞いでた。
「あんまり皆と離れないで。遠くに行ったら…」
ママの言い付けで入学させられた高等部の学園は、東南国にいた頃よりもハイソで、澄ましたお金持ちの子たちばっかりで、ちっとも楽しくなかった。
だから嫌味を言ってやった。
「だってボク、お花摘みなんて退屈なこと、したくないもーん」
「ちょっと…そんな…」
アカネちゃんは学級のリーダーで、まだ転入したての移民者のボクを、なんとかクラスに溶け込まそうとしているような節があった。
だから、最初は、すごく嫌だった。あんなお人形みたいな澄ましたクラスの子たちと、仲良くなんかなりたくなかったし、そいつらのボスみたいに見えたし、何より、学校が女の子だらけってどういうこと?信じられんなーい!って感じだった。
その日、ボク達は学校から離れ、引率の護衛兵と共に、学級で社会科見学に来ていた。都から少し離れた、高原の遺跡。なんでもありがたーい石板だかお墓だか卒塔婆を見るために、わざわざ護衛の超人兵を雇っての、大遠足だ。
小規模な貴族の娘さんも通ってるだけあって、お金に糸目をつけないっていうか、なんとも仰々しくて嫌~なイヴェントだった。
ボクはよっぽど仮病使ってふけようかと思ったけど、家にいたらいたでママとケンカになるだろうから、渋々来てやったのさ。この遠足に。ママからもらった小遣いの半分を、お昼の食費じゃなくて街の小物屋で見つけたお気に入りのブローチを買うために使って。
「もうお目当ての遺跡見学は終わったんだから、後はボクの好きにさせてよ。何も帰るまでキッチリ皆と調子合わせる必要なんてないもん」
ところが、意外にもアカネちゃんは「そうね、私も同感だわ」と、乾いた声で言った。
ボクはその時、初めてマジマジとアカネちゃんを見た。
その不自然に赤い瞳を見て、ボクは悟った。
あ、この子も同じなんだ……
ボクと同じ、ちぐはぐで、はまらないパーツ。パズルの、噛み合わない、はみ出してしまう、ぎこちないパーツ
でも、ボクは態度を緩めずに言ってやった。
「そうだもん、ボクはママの言いつけでこの学校に放り込まれただけで、好きでこんな監獄みたいなところにいたくないんだもん。大体さ、皆、世間知らずだよ。気取っちゃって…そんなにお約束事とか決まり事とか礼儀作法躾が大事?馬っ鹿みたいだよ!なんでも狭い世界に閉じ込めようとしちゃって!世の中にはもっとおっかないことがいっぱいあるんだから、早いうちにそういうのに慣れとく必要があるのに」
「例えば?」アカネちゃんは表情の読めない声で言った。
「例えば…う~ん……」ボクは辺りをきょろきょろ見渡した。天気が良くて、風が気持ちよかった。アカネちゃんの側には女の子には似つかわしくない、渋い馬がいて、そのお馬ちゃんもボクの答えを待ってるように、クリっとした眼でこっちを見つめていた「そうだな…、あ、あそこあそこ」
ボクは少し遠くの林になってるとこを指差した。そこに見えたのだ。
「ちょっと来てみてって!」
「あ、アンデンさん、勝手に…」
ボクは学校の馬に跨り、木々の方へ向った。
アカネちゃんも立派な自分の馬に乗って着いてきた。
「あ!これって!」
アカネちゃんは驚いていた。そりゃそうだろう。だってボクが彼女に見せたのは、草むらをノロノロ歩いていた、巨大トカゲだったから。
その時は『異生物』っていう言葉とか、意味とか、よく知らなかったけど、学校でも、とてつもなく危険だから絶対に近寄ったり、刺激したりしないように、どんなに小さい怪物でも、すぐに超人の人を呼んで、避難をすること、ってきっつく言われてた。
「ど、どうしよう。こんな近くに、こんなのがいたなんて…」アカネちゃんは普通の子がそうするように、普通に恐がっていた。「早く、衛士の人を呼んでこなくっちゃ!」
「必要ないよ」ボクは慌てるアカネちゃんを尻目に、腰の革袋から小型のナイフを取り出した。もちろん、刃物の帯刀なんて、学園の規則じゃ厳禁だったけど、いつ何時、野盗や強姦魔に襲われるかわからないんだから、むしろ武器を所持していない方がおかしいわけで、っていうボク理論から、常にナイフは持ち歩くようにしていたのだ。「とりゃー!」そして、そのナイフで、不意打ちをついてやったのさ。「どや!そりゃ!うりゃ!」何度か暴れて奇声を発するトカゲのバケモンを、ボクはフルボッコにしてやった。「これでトドメ!」
「あ!」アカネちゃんは目を丸くして、驚きの声を上げた。
そりゃそうだろう。
だって、ボクのナイフの猛撃で、大きなトカゲの異生物は粉々に消えちゃったんだもん。
「どんなもんだい」えっへんと、ボクは自慢げなポーズを取った。
ところが…「クリムゾン!」
ヒヒーーーンという馬のいななきと共に、アカネちゃんの馬が暴れだし、そして駆け出した。
「え?…わ!しまった!」
トカゲ化物は仲間を呼んでいたんだ。だから、ボクが夢中になって気付かないうちに、もう一匹が近づいてきて、それを目の当たりにしたアカネちゃんの馬が、ビビって逃げ出しちゃったんだ。
図体は堂々としてるけど、意外と繊細で臆病な子だったらしい。
「クッソー、まだいるのかぁ!」
「あ、ああ、アンデンさん!追いかけなきゃ!」
そうだった。
今は現れたもう一匹より、全速前進で走り去っていったアカネちゃんの馬を捕まえなきゃ。
「ちょっと、この子借りるわよ!」アカネちゃんはやや遠くに置いていたボクの方の馬に飛び乗った。こいつは何食わぬ顔で、呑気に草を食っていた。馬は乗り手に似る、っていうのはどうやら間違いみたいだね。
「待って!ボクも」
ボクはアカネちゃんの後ろに飛び乗った。ブヒヒーン。まるで重いよコラ!とでも言うかのように、不平声を上げる馬。なんというじゃじゃ馬!
構うもんかと、アカネちゃんは馬の腹を蹴り、駆け出していった自分の馬を追いかけた。
ボクは馬上で、必死にアカネちゃんの背にしがみついていた。
もちろん、東南国にいた頃から、乗馬の訓練は受けてたし、馬を走らせることだって、なんなく出来た。イカした男の子の後ろに乗せてもらったことも何度もある。
だけど、そんなボクでも、振り落とされないように必死になっているしかなかったんだ。
アカネちゃんの手綱さばきはとても十代の、お嬢様学校に通う淑女のそれではなかった。まるで、草原の狩人みたいに、猛スピードで、起伏も激しかった。
あんまりに高低差のあるアップダウンで、鞍に何度も打ち付けられるボクの股座が刺激されたのか、スピード狂みたいに脳内快感物質が分泌されてたのか、なんだかよくわかんないけど、目の前にあるアカネちゃんの黒髪が、炎のように燃え上がるような幻を、ボクは見ていた。

「それでね、こっからがスゴい話なんだけど!アカネちゃんのクリムゾンが…」
「もう、マナったら、良いよ…」アカネはマナの饒舌を嗜めようとした。
その時。
「おーい、遅れてすまーん!」
彼方より声があった。
タイジは聞きなれた友の声のした方を振り返った。夕闇の中、今の話の続きよろしく、正に馬に跨った、二人の姿が浮かび上がってくる。
「悪いな、マコト、送ってもらっちゃって。よっと」サキィが鞍から飛び降りた。猫族との亜人である長身長髪の美青年は、似たような姿をした亜人の騎手に礼を言った。
似たような、という印象はとりわけアカネ・ソンカ・トーハにとっては強く、一瞬、二人は兄弟のように見えた。
二人とも、獣の血が混じっていて、戦士のような勇ましさと、獣人らしき美しさを備えている。だが、よく見ると、長い髪の男の方はヒョウの特徴を持ち、馬上の人物は、丸い眼をしているが、筆の先のような尻尾があり、狐族であるように窺われた。
「サキィ、遅いよ」タイジは既知の仲であるはずのマコトの方には首を向けず、演奏会を鑑賞しにきた友を迎えた。
「悪ぃ、悪ぃ、ああ、お前も、重かったろう」サキィは爽やかに笑いながら、さっきまで二人分の重量を支えていた馬を労わった
「三十五号は全然、平気だぜ」狐の獣人は言った。
「三十五号…」とアカネ。「馬の名前も、人それぞれね…」
「わぁお、サキィくん!彼は誰?」マナは馬よりも、その上の人物に注目「なかなかかわいらしいイケメンくんじゃん!ちょっと『ちいさい』気はするけど、非実在青少年じゃないから全然平気だお!ねぇねぇ、是非ボクにも紹介してよ!」
美少年と思しき人物を目の当たりにし、焼きたての菓子を前にしているかのようにヨダレを垂らしているマナ。
するとサキィは「だってさ、マコト。どうする?」
それを受けてつぶらな瞳の獣人剣士は「悪いけど、趣味じゃないな……」
「あ~~ん!サキィくんのせいでまたフラれたあああああ!」
「マナ、あんたって、ホントに変わんないのね」アカネはゲンナリ顔で、親友を見つめる。
マコトはそんなアカネ・ソンカ・トーハの横顔を、その紅の瞳を、馬の上から見つめている。吸い込まれるかのように。共鳴するかのように。
タイジは、最初は気を配って黙っていたが、マナの挙動を見て、その静かな憤りから、言ってやった。「マナ、その人は女の子だぞ」と。
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人気のない、智恵の迷宮を、タイジは一人歩いていた。
学生たちはもう長期休暇に入った為、あるいは帰省をしたり、あるいは寮棟で静かに時を過ごしたりで、だだっ広い古ぼけた宮殿のような魔術大学は、より一層その広大さを感じるほどに、静けさに包まれている。
気がつけば、マナよりも熱心に足繁く、この魔術大学に通っている。
タイジを中心とした研究チームが結成されて数ヶ月、確実に成果は上がってきている。来春からは、いよいよ超人の傷を癒す特効薬を、製品として売り出すことが出来るかも知れない。
「そうすればオズノール先生の食費も、少しは回収できるかな?」
両生類のようなあどけない顔をにやにやさせ、タイジは肌寒い廊下を、多少の満足感を以って、歩んでいた。
東南国城下町の、寄生虫のように閉じ篭っていたあの家を出た、あの夜に、まさかこんな今になるとは、全く想像もしていなかった。
僕は超人になり、そして、今度は同じ超人の為に、力を貸している。
今までは考えられなかったことだ。今までの自分には……そう、きっと何度か世界が巡ってこないと、こんな能動的な状況にはならなかっただろう。
僕に出来ることなんて、ほとんど何もないと思っていた。自分は、誰の役に立つこともなく、一人、ぬるま湯の子宮の中で、生まれることなく消えていく存在に過ぎないと思っていた。
人の為に、何かをしている。
いつからだろう…それが、楽しいことと思えるようになったのは…
超人になった僕は、超人の為に、薬の開発と技術、そして、隠された謎の解明に、夢中になっている。
といっても、医療研究は、本来僕の関心のあるところではなかった。
それ以前に、僕には知りたい事実があった。
超人とは何か。異生物とは何か。それはどこから来て、どこへ向い、そして、何故変わるのか!
あるいはそれは、たった一人の狂人の頭の中にしかない、妄想に過ぎないのか。
いや、そうではない。そうあってはならない。それは世界のすべての人の関心事。
今やっと、そのこと…つまり僕の本来の関心事に向える時間が出来た。
「超人……か」
今でも時々信じられないと思うことがある。自分がそれに生まれ変わってしまったということ。

超人は人間の向うべき次なる段階なのだ、というのがハコザ博士の言い分だが、果たしてそうだろうか。
超人ではない普通の人間との比重を考えてみると、明らかに少数派だし、こんな力を得てしまった僕達は迷惑な存在なのではないだろうか。
そんな考え事をしていたタイジが、寂しげな廊下ですれ違ったのは、正しくそのハコザ教授だった。
「あっ」
「おお、タイジ君じゃないか」
「こ…こんばんは」
相変わらず射るような鋭い目つきに、タイジは冷や汗をかく。
こんな時期に学内にいるとは…君はずいぶん勉強熱心だと聞いているよ。うん、素晴しいことだ」
「えぇ……そんなことは…」
「それに、例の研究チームの開発品。是非、未完成でもいいから私にも公表してくれないかねぇ。知り合いに蒐集家の男がいるんだが、彼もきっとそれを見たがってるだろうし…」
「そ、そうですね」マズイ、気圧される「でも、それは時期が来たら…」
「そうか?ちょっと残念だな」なんとか抜け出せないか…
いや、違う。
逃げるんじゃない!
そうだ…こいつは……敵だ!

「!」
タイジは腰に下げた革袋の中身を思った。
今、辺りには誰もいない。
取り出し、ハコザの前に晒す。
副学部長のサインと同じ物が刻まれたそれを!「あの…これ…」
「そ!それを…!」
ハコザは見た。
異国の少年が、紛れもなく自分の署名が掘られている金の筒を手にしているのを。
この動揺!間違いない。
タイジは、あの暗黒の地下道で、マナの級友だったかもしれない異生物を倒した際に手に入れた筒を目にして驚いているハコザを見て、疑惑が確信へと変わるあの高揚感に満たされていた。
こいつだ!こいつがマナの仲間を…!
「ふふふ、くくく、しゃしゃしゃ」だが、ハコザは笑い出した。焦りも驚愕も消えていた。「違うんだな、タイジ君。それは、今、ここで私に見せるべきではない
「え?」
ハコザは指輪のはめられた指で髪をすいて「そうそう、卒業式のある週末に、私の館で宴が開かれる。予定は空いているかな?君と君の仲間達を是非、その宴に招待したい」
証拠を突きつけられて追い詰められた反応をするかと思っていたタイジは、ハコザ教授のこの意外な申し出を聞いて「そ、それは…」
「パーティだよ。学内の掲示板にも告知はしてあるから、是非来てくれたまえ」ハコザは唇を持ち上げながら「その時、忘れずにそいつを持ってきてくれよ」
タイジは動けなかった。
ハコザの突然の不可解な誘いに対する驚きもあったが、それ以上に抗えない命令を下されて、全身が硬直してしまっていた。

その日の夜更け。
タイジは灯りも灯さず、マナの部屋の戸をあけ、暗闇の奥へと呼びかけた。
「マナ…起きてるか?」真っ暗な部屋から返事は返ってこない「今日…ハコザ先生と廊下ですれ違ったんだ」今夜はサキィは戻らない。ユナおばさんはとっくに就寝している。「もう、この話はしないって、約束したけど…」
「聞いてない振りしてるから、黙って続けて」くぐもった少女の声が返ってきた。
タイジは声をひそめ、話を続けた。
学生を罠にはめたのはハコザの仕業。金の筒のことも、そこにあった同じサインも、そして実際本人に会って、確かめた。今、奴は自身が主催する宴に僕達を招待し、更なる罠に陥れようとしていること。
「マナ、僕は医療棟でやるべきことは大体済ませた。薬品はほぼ完成し、新年になれば、それは発表できると思う。図書館での調べ物も、目処がついた。まだ完全じゃないけど…切り上げてもいいぐらいには出来た。僕は、自分の命を失っても、あいつを倒したいと思う」
タイジの、初めての勇ましき宣言を受けた少女は、ただ長い長い沈黙の間を置き、暗闇の寝台から、小さな言葉を紡いだ「こんなにチャンスがあったのに…ようやく来たかと思ったら、そんなつまんないことを言うだなんて…」
「マナ!僕は本気なんだ。お前だって、もうわかってるはずだ。お前の仲間たちを殺したのは、あいつ、ハコザだって!チャンスは今度の宴。その時に…」
「いいよ、もう!なんも分ってないんだから!」怒りを含んだマナの声「ボクはね、タイジがシコシコ学者さんごっこしてる間に、チョーかっこよくて男前紳士の学長から、秘伝のスペシャル魔術の特訓を受けてきたんだ。それさえあれば、どんな奴だってあの世へ送れる、禁断の魔術」
「え…」マナも…既に?
「わかったら、早く部屋を出てって!でないと、もうちょいで完成のその魔術、実験者第一号をタイジにしてやるから!」
タイジはマナが俄かに怒り出した理由も分らず、要領を得ないまま扉を閉めた。そう、扉は閉められた。少年は少女の部屋の扉を閉めた。そして立ち去る。
僕も、こうしてはいられない。



「お、おはよう、タイジ」
「おはよう…えと、マコト……くん?さん?ちゃん?たん?」
「なんだよそれ、マコトって呼び捨てでいいよ!あとたんだけはない。マジで」
狐族の剣士、溌剌とした少年風の少女は、花火のように明るい笑みを、やって来たタイジに返した。
「なぁ、タイジ。今日は特訓なんだって?覚悟しとけよ、ゲンのやつ、ぶっきらぼうでいけ好かないから」
「ゲン…ていうの?サキィが教えてくれた弓の使い手」
「ああ、まだオレたちの仲間になってから日は浅いんだけど、あいつはやべぇよ。確かに稽古じゃオレやサキィさんの相手じゃないにしろ、あの弓の一撃は、ウチらの刃よりも強力かもしれない」
サキィやマコトの打撃をも上回る弓矢?
「一応、自分は狩人だなんて言い張ってるけど、とんでもない図体してるんだぜ。だからいつも皆で言ってるんだ、狩人っていうのは森の中にいて、木から木へ飛び移ったり、獣の声を聞いたり、もっと身軽で俊敏な奴らのことだろ?お前はなんでそんなに鈍重なんだって!するとあいつはぶちゃむくれた顔で言い返すんだ。『どんなに射出に時間がかかっても、相手を弓矢で倒せれば、狩人だ。しかも俺は一撃で沈められる』ってね。変わった奴だよ。こっちこいるからさ!」
マコトはサキィの事務所裏から出て、路地を歩いていった。
サキィはその日、別件で留守にしていた。
先日、弓矢の修行を受けたいと申し出たタイジに対し、若くして頭領となった親友は「うってつけの奴がいるぜ!」と快活に言い、マコトに頼んで紹介してもらうことにした。
「おーい、ゲン、いるか?」マコトはサキィは『さん付け』でも、他の連中は呼び捨てらしい。彼女の年齢からすれば、皆先輩みたいなもんだが…「なんだあいつ、あんなのっぱらにいるぞ」
それは中央国皇都、ボンディ領の枠の外、異生物徘徊する恐怖の平原ゾーンに突き出たエリア、大きな木の下に、座っていた。まるで巌のように。
マコトが評した通り、ガッシリと大きな肉体。浅黒い肌にゆったりとした衣装を身につけ、縮れた剛毛が草原から吹いてくる風になびいている。
胡坐をかいている男の手の中にある武具を見る。巨大な体躯に一致するように、これまた巨大な射出武器。
「ゲン、連れてきたぜ。彼がタイジだ。頭領の古い友人で、なかなかの弓使いらしい」
タイジは狐の尻尾を揺らす少女の後ろに立って、黙って見下ろしていた。
確かに、腕力は相当ありそうだが、こんな馬鹿でかい図体の彼に、緻密な操作を要する弓具など扱えるのだろうか。マコトみたいに、斧で戦ったほうが性に合っていそうに見えるが。
「なかなかの弓使い」その身に見合った、低い、太い声で、ゲンと呼ばれた大男は呟いた。
「いや、そんなことは…」
タイジが謙遜しようとしたところ、ゲンは木立の下に座ったまま、その巨大な弓具を持ち上げ、何もない平原の遠くを見据え、そして、撃った。
どひゅうううううぅぅぅ
岩をも粉砕する弓矢は真っ直ぐに野原を突き進んでいき、失速することなく、どんどん遠くへ、小さくなり、やがてタイジの眼からは見えなくなった。
なんだろう…自分の弓の飛距離を見せようとしたのだろうか。
確かに、彼が今撃ち放った矢は、まったく衰退することなく、平野の見えなくなる遠くまで飛んでいったが…
すると「うっわー、驚いたな!」マコトが矢の飛んでった先に眼をこらし、感嘆の声を上げた。
「え?マコト…」
「ああ、そうか、タイジの眼には見えなかったか。オレは獣の血が入ってるから、見えたんだ。今、ゲンがなんもない方向へ撃ったと思った矢が、ずーっと遠くにいた異生物に命中したよ、しかも、たった一発でぶっ殺した!この距離から、矢は少しも失速しなかった。ちょっとオレも信じられないよ」
「あんたには、俺の教えを請うだけのスキルがあるのか?」
地の底から響いてくるような声で、座ったままのゲンはタイジを見上げもせずに言った。

その日、マナは太陽が昇るより早く起きだし、彼女の母親とともに、盛大な準備を行った。
マナの卒業式だ。
異生物との実戦を踏まえ、本格的に戦力となる魔術師を育成する為に設けられた魔術学部第一魔術学科魔術師学専攻生の、初めてにして、唯一の卒業生。
それがマナ・アンデン。
志半ばで散っていった七人の仲間の無念を乗り越え、彼女は遂に全教育課程を修了した。
対外的に見れば、これはちょっとしたニュースでもあり、式には中央皇国の王宮からも数人、列席し、またこの報せは諸外国へ、抑止力めいて発表もされた。
未だ国交回復の兆しのない東南国へも、皮肉めいたこの報告書が、皇族専用の伝書鳩の足首にくくられた。
もちろん、当の本人にとっては、そんな政治的、社会的、歴史的な意味合いなどどうでもよく、もっぱらお化粧のテクニックに全身全霊を使い、答辞の発表に緊張をし、式典用の豪華な一張羅に袖を通すのにわくわくしている、そんな小市民めいた気分しか持ち得なかった。
魔術大学で開かれた式典には、タイジももちろん出席した。
実をいうと彼は、マナや在校生のアオイらと同じ学生という扱いではなく、客員教授兼超級医薬品開発研究室スタッフという肩書きのもと、賢者の如き教授らと共に式に参列したのだった。
タイジは開発研究室の既婚の研究者オズノール女史らと共に、冗長な式典を、何度も欠伸をこらえながらジッと耐えた。
お偉いさんの退屈な長話を凌ぐために、普段よりも数倍美しく魅惑的な姿となったマナを、遠くから、何度も見つめてしまっていた。
他の学科、学部の生徒の群に交じっても、そこだけは一点、輝かしく崇高な、愛しい領域であった。

その夜。
仕事がどうのとか言い訳をつけて式には姿を現さなかったサキィと共に、アンデン家では遅くまで晩餐が催された。生憎、彼女の第一の心酔者アオイは、お家の都合でマナ宅に来ることは出来なかった。
「おめでとう、マナ」式にも顔を出した親友のアカネ・ソンカ・トーハは「あんた、どんどん立派になってくね」
「そんなことないょ~~ん」マナは酒に酔って真っ赤な顔と真っ緑な髪で「アカニェっちだってさ、むぅっぷ、ボクよりじぇんぜんべんきょーでけるひ」
「はいはい、もうお酒はやめなさいね」アカネはやれやれといった顔をして「それじゃ、夜も遅いし、私は帰るね。タイジくん、サキィさん、マナのこと、頼んだよ」
三人の若者は、親友の母親に慇懃な挨拶をして帰路についた紅の瞳を持つ少女を見送った。
ほどなく、マナは「少し休む」といって自室に引き下がったまま、次の日の出まで決して目を開けないだろう深い眠りに陥った。
「やれやれ、ホントに、どんどん立派になってくな」タイジは蝋燭の灯りを片手に、マナの部屋のドアを閉めながら「どんどん…追い抜かれてる気がするよ」感慨深げに言った。
「まったくだな」とサキィ。
「何言ってんだ、サキィだって、今や立派な実業家じゃないか」
「そういうタイジだって、薬の開発、進んでんだろ?」
「何にせよ、あの子が無事に卒業を迎えて良かったよ」食べ散らかった食卓から、母親ユナの声が届いた。
「ユナ・アンデン殿。今更ながら、此度はおめでとうございます」酔っ払い獣人のサキィは、シャキっと敬礼のような仕草をひょうきんにして言った。
「ええ、ありがとう」ユナはにこやかに笑って返した。ユナは四十代前半で、確かに目皺や肌の衰えは顕著にあるものの、黒い髪には艶があり、よく笑いよく食べるその様、まだまだ充分若々しい御婦人である。「ささ、こっちに来て、もう少し飲んだらどうだい?」
「いただきまっす」サキィは猫族の尻尾をくるくるさせながらテーブルに舞い戻った。
「なーにその明るいキャラ」とタイジ。
「ささ、若者はもっと飲まなくちゃ」杯を勧めるユナ。
「わ、僕はもう、いいです」やんわり拒否するタイジ。
「しっかし……あの子も大きくなったよ、ホント」
「やっぱり、苦労なさったんですかい?奥さん」サキィが酔った声で尋ねる。
「そりゃぁ苦労の連続だったわよ」ユナ母は横柄に「わがままだし、無鉄砲だし、ちっとも大人気ない。それに男癖の悪さもピカ一でしょ」
「ええ、そうですね」タイジは即座に同意をした。
「あの子はねぇ……死んだお父さんがね、いつも構ってやれなかったから。姉のリナも、妹にはあんまり干渉しなかったし、私は叱ってばっかだったから」
ユナおばさんは、マナの育ての親としての回想を語り始める。
「私と亡くなった夫はもともとこの国の出身でね。マナが生まれてすぐ、東南国に一家で移民したのよ。マナはね、しっかり者の姉リナといつも比べられて、ドジでやんちゃで、すぐに泣きわめいたり怒って癇癪起こしたり、そりゃ子供ん時は大変だったのよ。今もかもしれないけど」
タイジは黙って心の中で「今もです」と言った。
「でも、どんなに機嫌が悪かったり落ち込んでても、パパがうちに帰ってきたら途端に良い子になってね。ホントに父親が大好きだったんだよね。私はあの子とはずーっとケンカばっかりだったし。できれば、あの人がずっとマナの側にいてあげれたら良かったんだけど…けど、超人でもあった夫は仕事が忙しくてね…なかなか家にいられる時がなかったんだよ」
タイジはこのマナの母親、そして姉のリナには会ったことがあるが、彼女の父親には終ぞ顔を合わしたことはなかった。小さな肖像画でその髪の色が娘の興奮時と同じであることを確認したぐらいだ。そういえばあの絵は……
「マナが、そうね…小等部を卒業して、中等部へ入った頃ぐらいからかな。私も時には辛くあたったりしてたな。あの子、案の定悪い方へ走っちゃいそうだったから。家に帰ってくる時間も遅くなってきたし、リナにも叱りつけるように言ったんだけど、反抗期だったのかしらね、私らの話なんかまるで耳を貸さないで、年上の男が集まってるようなとこに遊びに行ったり、そりゃもう心配したわよ」
タイジは兄のことを思い出した。
セイジ兄さん。
マナと次兄がどんな経緯で知り合って、関係を持ち始めたのかははっきりとは分からないが、確実にその綱渡しとして自分はいた。マナのことが好きだったのに、何も出来ないでいた自分が。
そうか、あの時期マナはグレていたのか。不良っぽい感じではなかったけど、家が嫌いで夜遊びばっかりしてるみたいなことを話していた気もするな。
「パパが死んだ時は大変だったわ。ちょっと思い出したくないくらいね。私はなんとかかんとか、二人の娘を引っ張って、こっちの国に帰ってきたわけ。あの時のことを思い出すと……今でも冷や冷やするわ。マナなんか、お父さんが死んじゃったのと、住み慣れた土地を離れるのとで、すっかりダウンしちゃってね。んんん、ダウンて感じじゃなかった。もう…一日中死んだ魚みたいな目をして、まるで叔父から虐待を受ける少女みたいな……ウッディ!そりゃもう、人が変わったみたいに…」
そうか。
マナが高等部の途中で突然姿を消してしまった直接の原因は、親父さんの死だったのか。
家庭の事情。
「なんとかあの子をこっちの新しい学校に転入させて、真面目に勉強するように言って聞かせたの。敬虔な精霊信仰の、お嬢様学校にね……最初は新しい環境に慣れなかったみたいだけど、すぐに仲良しの友達を作ってね…それがあのアカネちゃんよ」
サキィもタイジも、先ほど丁寧な挨拶をして帰っていった、優等生然としていながらも、どこか垢抜けない少女のことを思い浮かべた。
「それで、友達も出来たし、私の見えてる範囲では真面目に勉強してたみたいなの。アカネちゃんと。勉強嫌いのあの子がね、やっぱりお父さんが死んだショックで、少しは心を入れ換えてくれてたのかな。それとも新しい親友が勉強熱心な子だったからか…ともかく、マナは気持ち悪いけど真面目に勉強してるみたいだし、リナは学校の先生になるって進路も決めて、私も昔住んでたこの国で、再就職して、なんとか生活も軌道に乗り出してきた頃だったわ。あの子がね、また、とんでもないことをやらかしてくれたの」
タイジは自分が知らない時代のマナの話が聞けて嬉しかった。
卓上に置けれたランタンの炎が、時の螺子を巻き戻すように、揺らめいていた。
「それで、マナは何を仕出かしたんです?」
「まだこっちに移ってきて、それほど経ってない頃だったわ。多分、秋だったかしら…ある日、マナが『悟りを開いたお!今日の晩御飯はボクにおまかせあれ~』なんて、学校から明るい顔で帰るなり言って、私が『どこの神殿に行ってきたつもり?遊び人なのはあんたでしょ』っていったら、手に持ってた瓶を私の前に置いてね。その瓶の中には水と一緒に魚が入っていたんだけど。驚いたわ、ホントに。玄関先でそいつを持ったまま目をつぶって、何かを呟いたと思ったら、ちょっと、あの子、魔術を使ったのよ!私はもう、見ること無いと思っていたわ。夫が死んでからは、もう魔術とか超人とかそんなこととは縁が切れたと思っていた。でも、マナは既に魔術を覚えていて、それで私の目の前で生きた魚を焼いちゃったのよ。はい、今夜のおかずは焼き魚ね、なんて言って。 水に浸かったままの焼き魚を …あの子はとても喜んでいた。最愛の亡き父と同じ 力を使えるようになったことをね。パパと同じ偉大な魔術師になるんだ、があの子の小さい頃の口癖だったし」
「じゃあ、親父さんも魔術師だったんですか?」サキィが尋ねた。先程ユナが注いだ酒は、既に飲み干してしまっている。
「厳密には違うわね。超人ではあったけど…でもマナは魔術師になるんだ、なんて言い始めちゃったのよ。それもこれもあの魔術アカデミーが、より魔術の研究に力を注ぎ出したとかで、精力的に受験生の募集をしだしてた時でね。魔術大学といったら、うちの国で最高峰の学問機関と呼ばれるとこよ。今までは特権階級とか、貴族の中でも特に有力な貴族のおぼっちゃんおじょうさまとか、ほんのわずかの超人の子供でしか入学することが出来ない、正に狭き門。まさか、うちの子には縁の無いとこだと…。ちょっとした国の援助があって、学校は少し良いとこに通わしてたけど、よもや、そんなとこに行くなんてことはないと、私も思っていたわけ。それに何より、あの子がその道を歩むことは、私は賛成出来なかったしね。超人や魔術なんてものに関わって、あの人みたいに、マナも命を落とすことになってしまうんじゃないかって、私は本当に心配した。恐かった。そしたら、あの子は取ってつけたような決まり文句を言ったわ。『ママ、平和な時代は待っていても来ないんだよ。ボクがみんなの平和を守る為に魔術を勉強するんだ』なんてね。そういう言葉は決まって、軽々しいノリの信用置けない人間がいうものよ。大切な娘を、夫の二の舞には出来ないでしょ?だから私は頑として認めなかった。お前はそこそこの成績で高等部を卒業してくれれば良いんだから。そしたら呉服屋にでも勤めて、危ない目に遭わずに働いてくれって。でも、あの子ったら、自分の魔術力を盾に、上の方に自己推薦しちゃったのね。私は完全に負けたわ。しまいにはアカデミーから声が掛かっちゃってね。入試の手順は省くから、何が何でも入学するように、なんて言われてしまったの。私は旦那と暮らしてた時も、超人の力とか能力には干渉しないようにしてたから、実際のところは分からないけど、どうもマナの力は並のものじゃなかったらしいのね。よくわからないけど。大学からお誘いがかかるぐらいだから、よっぽどだったんでしょうね。受験勉強もあっさりパス出来たし、大好きなお父さんが使っていた魔術のことをたくさん学ぶんだーなんて、言って…結局、学校を飛び級して、魔術アカデミーに入っちゃったのよね」
「そうですか~、そんなことが~、ぐ~」
見るとサキィは椅子の上で舟を漕いでいる。
しっかり話を聞いていたと思いきや、突然眠り出す、いかにもサキィらしい。
「あらま、こんなとこで寝ちゃ風邪ひいちゃうわよ」
「大丈夫です。僕が運びます」
タイジは立ち上がって、サキィのしなやかに引き締まった猫族の体を椅子から動かそうとした。
「ほら、サキィ、寝るならベッドで寝ろよ」
「うぉ、俺はあの剣には負けないぜ、むにゃむにゃ」
「お前起きてるだろ!」
タイジはサキィをなんとか寝室に行かせてやり、ユナと一緒にテーブルの片づけをした。
「悪いわね、ありがと」
「いえ…僕もそろそろ寝ます」
「そうね……年寄りの長話につき合わせちゃって、ごめんしてね」
タイジは最愛の少女の母親の、屈託のない笑顔を、蝋燭の火に揺らめく母性的相貌を見つめた。
「とんでもないです。じゃあ、おやすみなさい」
「そうそう、タイジくん…さっきの話…言ってなかったことが…」
だが、こちらに背を向けて部屋に下がろうとしていた少年の背に向って呟かれた言葉は、あまりに小さく、相手を立ち止まらせることは出来なかった。
だから、ユナはもう少し大きな声で言い直した。
「おやすみなさい」
「はい」
タイジはその時、ユナが何を言いかけていたのか、その決して空気には触れなかった単語の連続を、しかし、ぼんやりと、読み取っていたのだ。
おやすみなさい、お義母さん。マナを、危険な目に合わせることになってしまうこと、どうか、お許し下さい。
タイジは声に出さず、暗い夜の闇に向い、心の中で言ってみた。




時は近づいている、いよいよだ。
でも、この実感の無さはなんだろう。
はじまる前から…もう終わっているような……まるで、何度も訪れる季節みたいな…
卒業式が過ぎても、タイジは一人で魔術大学へと足を運んだ。研究室に顔を出しがてら、図書室に寄るために。
もはや、滅びた太古の城のように、大学内はひっそりとしていた。
そして、同じく、彼の精神も、静けさを纏っていた。
大きな戦いを前にして、タイジの心は波立つことなく、ある種の達観の境地にあった。
「タイジくん、これは、よかったら君に差し上げようと思ってる」
図書館でぼんやり本を眺めていたところを、ふいにヤーマ教授に話しかけられた。
「あ、ヤーマ先生。すいません、ちょっと読み疲れてボケっとしてました」
「ははは、なに、勉学に休息は不可欠だよ」
ヤーマの手には真新しい本が一冊あった。タイジはそれを受け取った。
「最近、私が書き上げた新しい論文なのだが…幾つか、君の研究にも役立つ項目があるんじゃないかと思ってね。そいつは私の教え子が複写したものだが、受け取ってくれるかな」まだ印刷技術の発展していないその世界では、本の複製は容易ではなかった
「あ、ありがとうございます」表紙には『超人と異生物』と書かれていた。それはまさに、タイジの個人研究の主題とするところだった。
静かな時が流れた。
タイジは間を挟んでから、おもむろに、こう聞いた。
「先生、超人を異生物に生まれ変わらせることって、できるんですか?」
また、間があった。
そしてヤーマが口を開いた。
「もし出来るとすれば、それは、この世の技術とは思えないな。以前、人の意のままになる虎の話をしたよね。もし人が人の命をそのように操作できるとしたら、それはもはや、人の行いではない。それは人を超えている
「人を…超える……超人…」
「超人は、人を超えた存在となりうるのだろうか。果たして、本当に人の上に立つ存在か。あるいは、それはただの驕り昂ぶりに過ぎず、人も超人も見下ろしている、更に上の存在がいるのではないだろうか。たとえ、石碑がそんなものはいないと、堅く、禁じていたとしても!」
神の存在は無い。
神的な位置に君臨する不可視の絶対的存在は、誰が残したとも分からない石版の文字によって、断固として否定されていた。

もし、目に見えない奇跡があなたの目の前で起こったとしたら、それは何某かの精霊が為し得た技だ。
これが、世界共通の教義であった。
タイジは半ば釈然としなかったが、ヤーマは立ち去ろうとしていた。「あの…」
「何をするかは、私の与り知るところではないが、くれぐれも命だけは大切にするようにな」中年の教授は背中で忠告を放って、姿を消した。

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