オリジナルの中世ファンタジー小説
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さあめです。
随時更新中です。
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「起きなさい、起きなさい」
剣と魔法の物語。
しばしばそれはこの主人公を眠りから呼び覚ます母の声から始まる。それが王道であるという以上に、作品の出発点は、つまるところ眠っているものを呼び覚ますという行為から始まるものである。
「起きなさい、いつまで寝ているの?」
その世界では人々が暮らす町や村などの集落の周りを、得体の知れぬ怪物達が日夜跋扈していた。それらは通常の生物とは異なる生物という意味で「異生物」と呼称されていた。
「起きなさいってば!もう!」
異生物。
それは人々にとっては脅威の象徴。
異生物たちは人間の居住区のぐるりを取り囲むようにして生息していた。それはさながら動物園の檻と檻の中で見世物にされている動物を思い出させる構図であった。
異生物は無防備な人間どもを襲い、激しく傷つけ、無情にも命を奪う。
だが同時にまた、人間の中にはそれら異生物と闘う「超人」の存在があった。
「ほら!いいかげん起きて手伝ったらどうなんだい!?」
超人。
それは異生物と戦う者。人間を超えた人間。世界を股にかけて活躍をする戦闘のプロフェッショナル。外見は常人とさして変わらないものの、各々人智を越えた能力を有している。
「タイジ!!」
「う…るっさい…なぁ」
タイジと呼ばれた少年は顔をすっぽり覆うように深く被った敷布の中から小さく声を出した。
「タイジ!いいかげんにしなさいよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、もう皆働きに出てるのよ?それなのにあんたときたら!いったいいつまでそうやってダラダラしてるつもりなんだい?あんたにゃ恥ってもんがないのかい?」
激しくまくし立てる母親の剣幕にも「恥なんて気にしてちゃ立派なやつにはなれないね」ともそもそと答えるタイジ。
「あたしが恥なんだよ。あんたの母親のあたしがね!そして、恐れ多くも偉大なる女王陛下からありがたいありがたい認可を頂いて営業しているこの城下町一の宿屋にとってね!」
「偉大なる女王陛下?あんなおばさんの何が偉大なんだか…」
その冒涜を聞いて母親はさすがに堪忍袋の尾を切らし、タイジのシーツを容赦無い腕力で引っ張り、彼をベッドから床に勢いよく叩き落した。
「滅多なこと言うもんじゃないよ!このろくでなしのゴクツブシ!あんたなんかお城の牢獄の掃除係にでもなっちまえばいいんだい!ドラ息子!」
しかしタイジは床に背中を強打して落下したにも関わらず、その動作は変わらずのんびりしていた。「ゴメンだよ、母さん。僕は囚人のケツ拭きなんかするつもりはないね」
「誰がお前のケツを拭いてやってると思ってんだい!そんなら、顔を洗って服を着替えて、そしたら店の掃除がたっぷり待ってるから、早く下に降りて来るんだよ!」と言い残してタイジの母は彼の部屋を出て行った。
タイジは観念して今日一日をベッドの中ではなく、立って歩いて生活することにした。
ああ、なんと情けない有様か。
ボサボサの寝癖と目ヤニのついた寝惚け顔はまるでのっそりとしたカエルのよう。部屋を去っていった母親の金切り声が頭の中で残響している。しかもこんな光景が殆ど毎日続いていたのである。
「ガミガミうるさいんだよ、まったくもう」タイジは一人きりの部屋で不平を言う。
そう、少年の名はタイジ。
広大な領土を誇る東南王国。その現君主である女王陛下がおわす城下町、サボウルツ市でも殊に古い歴史と格式のある宿の息子。五人兄弟の末っ子にして一家の問題児。
高い学費を払って入学させた町の高等学校をたった一年で退学し、定職にも就かず、生家の宿がこのように忙しい時にも関わらず昼過ぎまで惰眠を貪る不甲斐ない少年なのであった。
「ゆっくりしてたって良いじゃないか」
タイジは自分の凡庸さをわきまえていた。ちょっと金持ちの家に生まれたってだけで、周囲の人間から妬まれたり特別扱いされたりしたけど、自分には人に誇れるような長所もないし、賞状や勲章を獲得したためしもなければ、友達だってほとんどいない。勉強は出来ないくせにすぐ退屈だと感じて投げ出しちゃうし、運動神経も人並みでケンカも弱い。
ましてや自分は超人なんかじゃない。でもそれを悲観したこともなかった。潔い諦念。
「ねっむー」
タイジは大きな欠伸を一つして廊下に出て洗面所に行き、服を脱いで鏡の前に立った。両生類みたいな愛嬌のある顔。中肉中背。引き締まっているともたるんでいるともいえない己が肉体を見つめる。母親以外の女性が手を触れたことのない無垢な白紙の肉体。
だが、そこに唯一凡庸を揺るがすものがあった。
左の脇腹に、ペンキをぶちまけられたかのように残っている奇妙な紫色のアザを確認する。
まるで火傷の痕のようにそのアザはタイジの上半身を汚していた。鏡を見ながらタイジはそのアザを手でさすってみる。
「やっぱり、消えてないか。痛みもないけど…」
しかし、そこには小さな熱があった。アザは手をさするとかすかに識別できるほど些細ではあるが、確実な熱を伴っている。
タイジはかめの水を手ですくって寝癖で乱れた髪を梳かした。黒い髪は癖も無く、細くも太くも無く、少しも手は掛からなかったが、だったら無くてもいいやというくらい、凡庸そのものであった。
「相変わらずお寝坊さんだな」
勤勉な長兄がのろのろと従業員通用口を歩いてきたタイジに言った。「今日は、わざわざうちに予約までしてる団体さんのご到着なんだぞ?そんな日ぐらい、まじめに朝から働いたらどうだ」
また小言か、とタイジは胸の内で舌打ったが「なんだっけ?隣の国の…中央国の」
「そう。中央皇国の魔術研究機関の方々だ」と、兄は抱えた果実の籠を重たそうに持ち替えながら「といっても、今日のご一行はずいぶん若々しいみたいだぞ?確かお前と同じくらいかちょっと上くらいって聞いていたな。それが護衛の超人も付けずにご旅行中なのだと。明日、王宮に挨拶に向かわれて、二三日はうちの宿にご滞在」
「ふーん」タイジには大して関心が湧かなかった。
魔術。その概念はまだこの世界にとって真新しいものなのであった。
そもそも、タイジの暮らす世界が、いわゆる「剣と魔法の世界」へと変貌を遂げてから、まだ数十年しか経過していなかった。当然、魔術という不可思議な分野もまだまだ僅かな体系化と研究しか為されていない未知の領域なのであった。
「お隣の国は古くから学問や科学の研究に熱心だったろ。魔術って、得体の知れないもんにも真っ先に食いついたんだ。うちの国なんか、比べたらさっぱりだよ。もっとも、王国には世界最強の軍隊が控えている。超人兵もずいぶん増えたって噂だ」兄はタイジに説明を施す。「ただ、騎士団の中でも、魔術とかに関しては、完全に隣国に頼りっぱなしって噂だ。それだけ、かの国では研究が進んでるんだと。なんせ、今では魔術を教える学校までできているらしいからな」
「学校?」タイジは自分が逃げ出した学校のことを思い出して嫌な気分になった。
「おっと、学校つっても誰でも入れるわけではないらしいぜ。エリート中のエリート。中等科や高等科の成績をオール満点で通過し、厳しい試験に受かったほんの一握りの選ばれた者しか、魔術学校にはいけないらしい」
「はぁ」そうなのか。ご苦労さんだこと。
「今日、泊まりに来るのは、その魔術学校…魔術大学って言ったかな、たしか?とにかくその大学の記念すべき第一期卒業予定生たちらしい」
タイジはすっかり他人事といった顔で聞いていた。どうせ、この兄も最後は「お前も彼らを見習って、ちゃんと仕事に精を出せ」とか言うんだろう、と踏んでいた。
「お前も彼らを見習って、超人にでもなったらどうだ?」
「はぁ?」
なんだって?
僕が超人に?
「ははは!冗談だよ。お前なんかが街の外にいる異生物たちと戦えるわけないもんな!せいぜい歳の近いエリートさんを見て、そのだらけ切った生活に渇でも入れてみろ」と、長兄はタイジのケツを足でポンと蹴って行ってしまった。
お前だって、結局はうちの雑用係じゃないかよ!偉そうなこと言うな。
宿屋の運営はタイジの家族と他に田舎から出稼ぎに来ている小間使い達で切盛りされていた。タイジの父はタイジが生まれて間もなくに失踪してしまっていた。噂では郊外で異生物に襲われたのではないかとされている。
そしてタイジの四人の姉と兄のうち、三人はこの宿で働いていた。
ただ一人、次兄のセイジ兄さんだけは、家を離れていた。兄弟の中でただ一人、寡黙で冷たい目をした兄。
幼い頃から近寄りがたかった彼は、高等科の途中から料理屋で働き、やがてその腕を見込まれて王宮の調理場に仕えるようになった。
次兄は既に高等学校時代から宿舎で暮らしていて、同じ兄弟なのに全くの他人のような距離感があった。
当時から滅多に実家に顔を出さず、王宮に入ってからは完全に疎遠となっていた。タイジはもはや最後にいつ彼と話をしたか、思い出すことが出来ないでいた。
そもそも今も王宮にいるかどうかも疑わしい。
末っ子タイジは母に命ぜられたとおり、地上三階建て、木造築五十年、生家でもあるアリガタイ宿屋の隅から隅までの掃除をこなしていた。今日はその団体客を除けばわりあい閑散としていた。
「こんな宿屋」とタイジは掃除をしながら何度も思う。「こんな宿屋、潰れちまえばいいんだ。お墨付きとか言って変に国から汚い援助金とかもらってるくせに…」
しかし、かといってタイジは次兄のように家を出て行こうとは思わなかったし、ぬるま湯にはいつまでも浸かっていたいと願う、無気力で何も出来ない少年だった。
黒ずんだモップを持って帳場の前を通りかかった時、母親の書いたメモの羊皮紙が床に落ちているのに気付き、それを拾ってテーブルの上に戻した。
中央国立魔術大学魔術学部第一魔術学科魔術師学専攻卒業見込み第一期生様御一行、代表マナ・アンデン。そこにはそう書かれていた。
「マナ…アンデン?」
タイジはその文字を見て一瞬たじろいだ。
後頭部に稲妻が落ちた感覚。マナという名に覚えがあったからだ。「まさか、ね」
タイジは遠い昔を思い出していた。マナ…確かに良くある名前だ。けど、もしかしたら…「違うだろ」そうだ、あいつのファミリーネームはアンデンなんてのじゃなかった筈だ。変な奴だったけど、魔術師だなんて妖しいもんじゃなかったし、超人ですら無かったんだ。それに第一、あの勉強嫌いがエリートしか入れないような大層な大学にいるわけないもんな。どうせ、魔術師なんて陰気で根暗なひ弱ばっかりさ。女々しい男に内気な女、魔術師なんてどうせそんなもんだろうさ。マナはそんな大人しい女なんかじゃない。もうずっと会ってないけど…
だが、帳場を後にしてからも動悸だけは小さく尾を引いていた。懐かしい中等科の頃を思い出して。元気にしてるのかな、マナ。一体、今、どこで何をやってるんだ。あいつは、突然いなくなった。マナ…もう、どれぐらい会っていない?
そうだ、あいつがいなくなってから、何もかもが灰色になっちゃったんだ。あの夏に唐突に消えて、僕は高等学校を卒業する気力さえ無くなった。
陽が沈みかけて、雑巾で磨いた窓ガラスから見える外の景色が薄暗いベールに包まれ始めた頃、玄関ロビーの方から騒がしい声が聞こえてきた。
「ようこそ!ようこそ!お越しいただきまして、ありがとうございます!皆様のご到着を心よりお待ち申し上げていました」
ちょっとお偉いさんがやって来るとすぐこれだ、とタイジは母が客に対していつも用いるへつらいの態度にイライラしながら階段を降りていった。
「まあまあ、皆さん、遠いところを…。当宿屋が万全のサービスで皆さんを御もてなし致しますので、何かあったら遠慮なく何でも申し付けてくださいね」
兄達が連中の大きな荷物をさっそく抱えて部屋に運ぼうとしている姿が目に入った。
「それにしても皆さん、ずいぶんお若いのですね。さぞやお疲れでしょう。食事はもうすぐですが、湯の準備も出来ていますので…」
「あ!」
隣国の魔術大学の卒業予定生らしい一団の先頭に立った、髪の短い女がこちらに指を指していた。
「見ーつけた!タイジだ」
「ま…さか」
もう会うことはないと思っていたタイジは戦慄していた。
たった今、階段を従業員にあるまじき重たい足取りで降りようとしてきた自分に対し、鋭く指を突き刺しているその女。
旅人用の頑丈なマントを羽織っているにも関わらず、服の隙間から自分を誘惑する無邪気な色気を匂わせている魅惑の少女。
そうした想いがまた悔しくもあり、だからこそ二度と会うまいと思っていたタイジの初恋の女。
「タイジ!タイジ!タイジだよねー?」と、にこにこと意地悪げな笑みを浮かべながらてくてくと階段を上ってくる。こっちに近づいてくる!
「マ、マナ。どうして、お前が?」タイジはその場に貼り付けになっていた。階下にいる母親や彼女の仲間達のことなど全く見えてはいなかった。
「あははー、タイジったら、ボクに会ったからって、もう緊張してるんだね」
そう、このマナというタイジの背丈よりもちょっと低めで、黒髪のようにも、緑がかっているようにも見える艶々とした髪と、猫科動物の如き幼さの残る顔立ちを持った少女は、自分のことをボクと呼び、タイジの無垢で淡い感情を知っていながら、いつもそれを弄ぶのであった。
「元気にしてた?」と言って、マナはタイジの無骨で寄る辺ない手をいきなり握った。
タイジはますます動けなくなる。
「会いたかったよー。だってタイジったら急にボクの前から姿を消したんだもん。でも、今回の旅でボクが『是非この宿で』って学長に頼んでさ!あ、背ぇ伸びた?」
タイジは心臓を突き破られそうになりながらも、気を紛らす為に、もう一度最後にマナに会った日のことを思い出そうとする。去年の夏?いや、初夏だった…一年半ぐらい前?そんなに前じゃない…一年と…一年と…
「なぁんか、ちっとも変わってないねぇ。相変わらずの末っ子ちゃんだね!ボクが背を伸ばしてあげたもんでしょ」
マナを見る。
重たい旅装を着ていても、その下にある弾力感に満ちた柔らかい体が分かる。昔から発育ばかり良くて、ちらちらと見入ってしまっていた愛らしい姿。
すっかり顔を赤らめてしまっているタイジは小さな声で「背、伸ばしたって、どういうことだよ…」
だがタイジは知っていた。
媚びるような上目遣いを使って自分の手を握りながら猫撫で声で語りかけているにも関わらず、次のようなセリフをマナが口にするのを…
「ねぇねぇ、あんたがいるってことはぁ、セイジさんもここにいるってこと?」
「いないよ!」
タイジは柔らかいマナの手を振り払って「セイジ兄さんは王宮で料理人やってるから!」と邪険に言い放った。
「ふーん、そうなんだ。がっかりィー。なーんだ」
タイジは思う。
どうしてこんな女のことが今でも忘れられずに好きなんだろうと。
こいつは!
この女は!
マナは、どう考えても自分に害を与えている存在だ。こいつのせいで、平穏に過ごしたいと願っていた僕の人生は狂わされてしまった。拭い去れない呪いにも似たトラウマとなって、僕の人生にどす黒い甘美なえぐり傷を残して、それでもやっぱり、マナを前にすると好きという気持ちが殺せない。その自分の甘さに更に腹が立つ。いなくなってしまえば良いと何度も思った。何よりも性質が悪いのは、この女はそのことを知っていながら、まるで手玉に取るように自分の都合しか考えていない。
でも。
それでも、あの日…
突然行方をくらましてから今日まで…マナが僕の日常からいなくなってしまってから、僕は何に対してもやる気が出せなくなっていた。何をしても虚しいと感じるだけだった。
「ま、しばらくはタイジの宿にお世話になるわけだからよろしく頼むよ!言っとくけど夜中に襲ってきたりとか、変な気は起こしても、起こさないでね。あ、一応、あそこにいるのはみぃんなボクのカレシだから!」と言って愛らしい少女はロビーで呆然としている仲間達を丁寧にご紹介に上がられた。
「マナちゃんていうのね、あの子。スゴイじゃない!女の子なのにリーダーつとめてるんだって?しかも一番若いんじゃない?おまけにこの街の出身なの?」
呑気な母親は何も知らなかったようだ。
タイジは心底ムカムカしながら食後の皿洗いを手伝っていた。
「あんたと同じ中等学校行ってたって本当?あんなカワイイ女の子いたっけねぇ、同い年?」
「学年は同じだけど歳はあいつのが一個上!マナは高等学校の途中で隣の国に引っ越したんだよ。なんでも家庭の事情ってやつでね。しかも学校は別だったから、実質は中等まで」この皿を総て木っ端微塵に割ってしまいたい。
「あらあら、そうなのー。苦労してるのねぇ。でもそれで超一流の魔術大学に入るだなんて、ホントすごい女の子よね。どこかの誰かさんとは大違いね!あんな立派で優秀な女の子、うちにも欲しかったな」
タイジはそんな母親の言葉を聞いて、危うく激昂して次の言葉を言ってやりたかったが、萎えてしまいそれは控えた。
ふざけんな。お前んとこの二番目の息子の初めての女だよ、あいつは!
夜。
タイジはよっぽど断ってやりたかったが、母の口車に乗せられて、マナの宿泊している部屋までワインボトルを六本抱えて参上してしまっていた。
コンコンコン。
「追加ご注文頂いた当店自慢の葡萄酒を六本、重さで腕がポキっと逝っちゃうんじゃないかというくらい必死な思いで、でもどうせ全部無駄に空けては引っ繰り返したり吐き出したりするんだろうなと憂鬱な気分になりながら、お持ちしましたー!」と悪態をついてドアの外で言ってやった。
「はーい。ありがとねーボーイさん~どうぞーいつでも入ってきてぇ」
マナは接着剤でくっつけたようなべっとり陽気な声で答えた。
タイジは足でドアを開けた。
するとそこにはカードを手にしたマナの級友の男が三人と、髪が緑色にすっかり変色している赤ら顔のマナがいた。
「きゃー。ありがとう可愛いボーイさん。どうどう?いっしょに一勝負していかない?」とマナはすっかり酔っ払った目でタイジに語りかけた。
「結構です。僕はまだ仕事があるんで」それは嘘だった。
「ねぇねぇ、タイジが入ったらぁ、次からは負けた人は一枚ずつ服を脱いでいくってのはどう?きゃはは」
タイジはワインをテーブルに置いて、思わずマナの寝間着を見てしまった。
着ているのは普通のパジャマだったが、夕方に対峙した時に纏っていた外套ではなく、今はふくよかな肉付きをはっきりと教えてくれる格好になっている。
「わはは!ソレ、良いですね。ねぇキクチョーさん」と横の男が笑う。
「タイジ殿、いかがかな?ちょっとやってかないか?」と声をかけられた粗野な男がカードを切りながら言う。
「いや、明日も早いし」と、ついついマナの胸元を見ようとする己を抑制し「マナ、お前もそんなに酔っ払って、明日は早いんじゃないのか?髪が真緑だぞ?」
「えへー、うそぉ?」とマナはカマトトぶった仕草で己が髪を撫でた。
そう、こいつは興奮したりすると髪の色が黒から緑に変わるんだ。
亜人め!お前なんか人間様じゃないんだよ!
「もう、夜も遅いし、あんま騒ぐと他の客に迷惑だから…」
「え?でもこの階はうちら以外部屋を取ってないっておばさまから聞いたよぉ」
何がおばさまだよ!
「ねぇ、タイジぃ、セイジさんは?セイジさんは帰ってこないの?」
「セイジ兄さんはここにはもう住んでないの!お城!失礼します!」と、タイジは早々にマナの部屋を後にした。
そのくせ、彼は自室に戻ってベッドの中で眠る時、今ごろマナはどうしていることかと思い煩い、しかし確かめに行く勇気も出ないまま悶々と朝を迎えるのであった。
タイジはますます動けなくなる。
「会いたかったよー。だってタイジったら急にボクの前から姿を消したんだもん。でも、今回の旅でボクが『是非この宿で』って学長に頼んでさ!あ、背ぇ伸びた?」
タイジは心臓を突き破られそうになりながらも、気を紛らす為に、もう一度最後にマナに会った日のことを思い出そうとする。去年の夏?いや、初夏だった…一年半ぐらい前?そんなに前じゃない…一年と…一年と…
「なぁんか、ちっとも変わってないねぇ。相変わらずの末っ子ちゃんだね!ボクが背を伸ばしてあげたもんでしょ」
マナを見る。
重たい旅装を着ていても、その下にある弾力感に満ちた柔らかい体が分かる。昔から発育ばかり良くて、ちらちらと見入ってしまっていた愛らしい姿。
すっかり顔を赤らめてしまっているタイジは小さな声で「背、伸ばしたって、どういうことだよ…」
だがタイジは知っていた。
媚びるような上目遣いを使って自分の手を握りながら猫撫で声で語りかけているにも関わらず、次のようなセリフをマナが口にするのを…
「ねぇねぇ、あんたがいるってことはぁ、セイジさんもここにいるってこと?」
「いないよ!」
タイジは柔らかいマナの手を振り払って「セイジ兄さんは王宮で料理人やってるから!」と邪険に言い放った。
「ふーん、そうなんだ。がっかりィー。なーんだ」
タイジは思う。
どうしてこんな女のことが今でも忘れられずに好きなんだろうと。
こいつは!
この女は!
マナは、どう考えても自分に害を与えている存在だ。こいつのせいで、平穏に過ごしたいと願っていた僕の人生は狂わされてしまった。拭い去れない呪いにも似たトラウマとなって、僕の人生にどす黒い甘美なえぐり傷を残して、それでもやっぱり、マナを前にすると好きという気持ちが殺せない。その自分の甘さに更に腹が立つ。いなくなってしまえば良いと何度も思った。何よりも性質が悪いのは、この女はそのことを知っていながら、まるで手玉に取るように自分の都合しか考えていない。
でも。
それでも、あの日…
突然行方をくらましてから今日まで…マナが僕の日常からいなくなってしまってから、僕は何に対してもやる気が出せなくなっていた。何をしても虚しいと感じるだけだった。
「ま、しばらくはタイジの宿にお世話になるわけだからよろしく頼むよ!言っとくけど夜中に襲ってきたりとか、変な気は起こしても、起こさないでね。あ、一応、あそこにいるのはみぃんなボクのカレシだから!」と言って愛らしい少女はロビーで呆然としている仲間達を丁寧にご紹介に上がられた。
「マナちゃんていうのね、あの子。スゴイじゃない!女の子なのにリーダーつとめてるんだって?しかも一番若いんじゃない?おまけにこの街の出身なの?」
呑気な母親は何も知らなかったようだ。
タイジは心底ムカムカしながら食後の皿洗いを手伝っていた。
「あんたと同じ中等学校行ってたって本当?あんなカワイイ女の子いたっけねぇ、同い年?」
「学年は同じだけど歳はあいつのが一個上!マナは高等学校の途中で隣の国に引っ越したんだよ。なんでも家庭の事情ってやつでね。しかも学校は別だったから、実質は中等まで」この皿を総て木っ端微塵に割ってしまいたい。
「あらあら、そうなのー。苦労してるのねぇ。でもそれで超一流の魔術大学に入るだなんて、ホントすごい女の子よね。どこかの誰かさんとは大違いね!あんな立派で優秀な女の子、うちにも欲しかったな」
タイジはそんな母親の言葉を聞いて、危うく激昂して次の言葉を言ってやりたかったが、萎えてしまいそれは控えた。
ふざけんな。お前んとこの二番目の息子の初めての女だよ、あいつは!
夜。
タイジはよっぽど断ってやりたかったが、母の口車に乗せられて、マナの宿泊している部屋までワインボトルを六本抱えて参上してしまっていた。
コンコンコン。
「追加ご注文頂いた当店自慢の葡萄酒を六本、重さで腕がポキっと逝っちゃうんじゃないかというくらい必死な思いで、でもどうせ全部無駄に空けては引っ繰り返したり吐き出したりするんだろうなと憂鬱な気分になりながら、お持ちしましたー!」と悪態をついてドアの外で言ってやった。
「はーい。ありがとねーボーイさん~どうぞーいつでも入ってきてぇ」
マナは接着剤でくっつけたようなべっとり陽気な声で答えた。
タイジは足でドアを開けた。
するとそこにはカードを手にしたマナの級友の男が三人と、髪が緑色にすっかり変色している赤ら顔のマナがいた。
「きゃー。ありがとう可愛いボーイさん。どうどう?いっしょに一勝負していかない?」とマナはすっかり酔っ払った目でタイジに語りかけた。
「結構です。僕はまだ仕事があるんで」それは嘘だった。
「ねぇねぇ、タイジが入ったらぁ、次からは負けた人は一枚ずつ服を脱いでいくってのはどう?きゃはは」
タイジはワインをテーブルに置いて、思わずマナの寝間着を見てしまった。
着ているのは普通のパジャマだったが、夕方に対峙した時に纏っていた外套ではなく、今はふくよかな肉付きをはっきりと教えてくれる格好になっている。
「わはは!ソレ、良いですね。ねぇキクチョーさん」と横の男が笑う。
「タイジ殿、いかがかな?ちょっとやってかないか?」と声をかけられた粗野な男がカードを切りながら言う。
「いや、明日も早いし」と、ついついマナの胸元を見ようとする己を抑制し「マナ、お前もそんなに酔っ払って、明日は早いんじゃないのか?髪が真緑だぞ?」
「えへー、うそぉ?」とマナはカマトトぶった仕草で己が髪を撫でた。
そう、こいつは興奮したりすると髪の色が黒から緑に変わるんだ。
亜人め!お前なんか人間様じゃないんだよ!
「もう、夜も遅いし、あんま騒ぐと他の客に迷惑だから…」
「え?でもこの階はうちら以外部屋を取ってないっておばさまから聞いたよぉ」
何がおばさまだよ!
「ねぇ、タイジぃ、セイジさんは?セイジさんは帰ってこないの?」
「セイジ兄さんはここにはもう住んでないの!お城!失礼します!」と、タイジは早々にマナの部屋を後にした。
そのくせ、彼は自室に戻ってベッドの中で眠る時、今ごろマナはどうしていることかと思い煩い、しかし確かめに行く勇気も出ないまま悶々と朝を迎えるのであった。
「然るに、我が国と貴国との今後ますますの軍事、及び経済の発展を実現する為にも、貴国の領土内にあるとされる『暗黒の地下道』への入場許可を頂きたく候。国家魔術学研究機関直属、国立魔術大学魔術学部第一魔術学科、魔術師学専攻第一期卒業見込み予定生八名、かの地にて卒業試験の儀式を執り行いたく候」
午前の眩い陽射しが映える王宮の間で、マナは魔術大学の学長から授かった書状を勇ましく読み上げ、東南王国を治める女王陛下の御前で挨拶を行っていた。髪は静かに光りを帯びた黒に戻り、重々しく丁重に跪いて、背後に七人の同期を従えたその様はまるで出陣前の騎士小隊のようであった。
「お若いのに」と、マナの言葉が終わると女王陛下は穏やかな笑みをお見せになり、異国の学生達を労わるように、慈悲に満ちたお声で優しく仰られた。「そなたらの国が魔術という新しい分野に取り組まれるようになってからそれほど時はたっていません。ですが、もうこうして若い学生を送ってこさせた。それは誠に目覚しく、立派なことであります。マナさん、と仰いましたね?」
「はい。女王陛下」
マナは唇をキッと張り詰めた真剣な表情で、かつて自分が属していた国の最高権力者を見上げた。そこには昨夜のふしだらな姿の余韻は微塵もない。
「正直私は、あなた達のような若くて将来有望な方々を、あの場所へ向かわせたくはありません。貴国での風潮がいかなるものか、私にはいささか分かりかねますが、件の地下道は、世に得体の知れぬ強暴な異生物達がはびこるようになってから、それに抗する目的で、軍の中に超人を募らせる為、試練の場所として我が国が管理して扱っている区域なのです。決して、一般の市民や無関係者が立ち入らないように呼びかけています。そんな場所で、記念すべき第一期卒業生でもある貴方方が向かわれて、それでもし命を落とすようなことになってごらんなさい」まだお若い女王陛下は憂いをこめられた瞳で窓の方に視線を移しなされ「もし、そうなればそれは国家間の問題にも発展しかねません。中央国の旅人が我が東南国の、それもわざわざ身の危険が保障されているダンジョンなんかでもしものことがあったら、それはすぐに国際問題になります」
王宮の間には、重力を帯びた沈黙が漂っていた。女王陛下は予め、中央皇国からの要請状を受け取っておられたが、明確な了承の返事を今日まで出されずにおられたのである。
「政治の問題もありますが、何よりも、私が懸念するのは、貴方達の命のことです」女王陛下の御目には、我が子を愛おしむ聖母のごとき慈愛の影がさしている「貴方方はこの大陸、この世界で、最も魔術研究の盛んな国家の中枢にいる、選びに選び抜かれた貴重な存在です。大いなる未来と期待が、貴方達の行く末には控えているのです。魔術を志す者たちだけには限らない、たくさんの人々の希望でもあるのです。そんな貴方方が、もし凶悪な異生物の毒牙にかかって命を落とすようなことになったとしたら…それは大変な損失となります。だから私は兼ねてから、貴方達のようなまだお若い人たちを…」
「失礼ですが」
ところが、女王陛下のお言葉がまだ終わらぬうちにマナが口を挟んだ。
「お言葉ですが、女王陛下。我々はただの一人も護衛の兵をつけることなく、その異生物達が徘徊する野山を越え、国境を渡ってきました。陛下が我々がまだ若いと思われて、その力を見誤っているのだとすれば、それは少々遺憾でもあります。我々魔術アカデミーの生徒は、既に野山の異生物達を撃退するには充分な魔術の力を備えております」
国の権力者を前にして一歩も引かないどころか、尊厳を傷つけられたと悟って、途端に感情的になってしまったマナ。その大きな瞳には、決して引き下がらないぞという強い、無垢な頑固さにも似た意志が宿っていた。
「おい、マナ、やめるんだ」と後ろに控えていた、最年長のジンベという魔術師学生が小声で叱咤した。
「陛下に向かって失礼だぞ」と別の仲間も。
普段から感情的になりやすいこのお転婆少女をなんとかなだめようとする。
だが、女王陛下は突然お顔を崩して、高貴な笑い声を発せられた。
「おほほほほ。そうですか、マナさん。分かりました。私はあなたが気に入りましたよ」と上機嫌で「それだけの威勢と自信があれば、何も問題は無いと受け取っても構わないのですね。いやはや、少しでも貴方達を過小評価してしまったことを許してくださいね」
拍子抜けしたのはマナの方だ。俄かに緑色の按配が増してきていたその髪も、なんだか中途半端に治まりつつある。
「兵士長。この者達を暗黒の地下道へ立ち入らせることを正式に許可いたします。後はあなたの方から説明をしてやりなさい」と陛下は側に控えた重々しい鎧に身を固めた剛健な男に指示をなされた。
「あ、ありがとうございます。女王陛下。このご恩は決して疎かには致しません」と再びマナはかしこまって頭を垂れ「必ずや全員の無事帰還を約束いたします。陛下の名誉にかけて、最深部にある水晶の光を手に入れてきます」
暗黒の地下道の最深部。『すべてがはじまった地』と伝承されることもある、その秘境の奥に、人知れず光を放ち続ける不思議な水晶がある。その光に照らされると、特殊な紋様が採取できる。決して人工では似せることの出来ないその証を以って、ダンジョンに挑んだ超人たちは試練の達成の証明としているのである。
その光こそが試練の合格証明であった。
「ふふふふ、期待していますよ、マナさん。でも…」と陛下は玉座からお立ち上がりになり「私からも、一つ条件を出ささせていただきます」
「?」女王陛下の発言に、魔術学生一団はきょとんとして、顔を見合わせる。よく見れば、先ほどの重苦しい顔をした兵士長も僅かに不安げな表情になっている。
お若い頃は散々、突飛なお振る舞いをなされては、周囲の者達を困らせていたこともある女王陛下は、昔日のご自身の姿の片鱗を垣間見た少女マナに向って、少しの厳しい声で、仰られた。
「マナさん。もし、不幸な結果になったとしても、我が国としては、その結果に対してなんらの責任も負いませんこと、先の文言にもありましたとおり、そこのところだけは覚えておいてくださいね。もちろん、マナさん達なら、そんなことにはならないのですね?」
「はい。陛下。我々は断じてそのような無残な成果を残すつもりはありません。ご心配なく」
こうして、マナは王宮での役目を果たした。
その日、タイジは朝早くに王宮へ出掛けたマナが、出来ればそのまま帰ってこなければいいとさえ思っていた。また、僕のことを馬鹿にして…やっぱり会いたくなんかなかった。
だが、そう思う反面、想いを寄せるマナがいるという一種の、彼にとっての緊急事態に心は揺らぎ、どうにも落ち着かない気分になっていた。
昼食の時間が過ぎると、昨日と同じように全室の掃除が待っていた。もちろん、掃除を行う部屋の中にマナが宿泊している留守中の部屋も含まれていた。
「あいつ…」
何部屋もまわった後、タイジはしぶしぶマナの部屋に入り、空になったおびただしい数のワインボトルが転がっている様を見て「ほんと、なんも変わってないんだから。遊び人め!」とこぼしながらも、他の客室でそうするように、アルコールの染みた床をモップで拭き、カーテンを整え、そしてドギマギしながらシーツを取り替えた。ベッド周りに散乱していた見事な緑色を湛えた翡翠の如き髪の毛を目にして、早くこの場から立ち去ってしまおうと、傍から見たら熱心とも云えるような珍しくテキパキとした機敏さで作業を続けた。
「カバンも無雑作にこんなところに放り投げて」と、マナの開きっぱなしの旅行カバンを閉めようとする。
すると、そこに木枠に納まった一枚の小さな肖像画があるのに気が付いた。
「ん?なんだこれ…」
それは壮年の男性の絵だった。どうせ男好きのマナの情夫か誰かだろうと思ったが、緑色の髪をした凛々しいその顔立ちから、それがマナの父親であることが窺われた。首の下の位置に小さな文字で「最愛のパパ」と書かれていることからも、その人物がマナの父親であることに疑いの余地はなかった。更にその文字の下には生没年らしき年号も刻まれていた。マナの父親が死んだ年は、マナがこの国から姿をくらました年と一致していた。つまり去年。
「あーー!ヘンターイ!」
タイジは素早く振り返った。
「ちょっとぉ、いくらボクのことが好きだからって、そういうのは無しにしてくれるぅ?」
「いや、違うって!マナ、僕はただ掃除…」
タイジは完全に泡を食っていた。まさかもう帰ってくるとは思ってもいなかったし、こんな気まずいところを見られるとは!
「ちょっとぉ、タイジったら、ボクが好きだからってパンツとか持ってかないでくれるぅ?ボク、そういうムッツリな男は嫌いだよ?」とマナはわざと大声を上げ、怒っているようにも、からかっているようにも見える形相でタイジに近づいてくる。
「欲しかったらローン組んで売ってあげるからさ!勝手にお気に入りの持ってかれたりしちゃ困るんだよねー」
「ば、ばかやろ!お前のしししし下着なんか、ちちちっとも欲しくな」
タイジはすっかりパニックになってしまっている。
マナはそんなタイジに構わず、旅行カバンを閉めて「どうせやるなら堂々とやって欲しいよね。あんたがホントに下着ドロボーだったらさすがに絶交だよ」と冷たく言った。
「だから違うって!大体、お前のことが好きだなんて、いつ誰が言った!?」
「で、黒いやつとスケスケのと、どっち持ってったの?」とマナは悪戯猫の笑顔でタイジを諭した。
「ふざけるな!」とタイジもモップを床にダンッ!と打ち付けて自分を落ち着かせた。「ずいぶん早かったんだな」
「うん。女王様との謁見が思ったより早く終わって…。それで昼食をご馳走になったんだけど、ボク、急に昨日の二日酔いが襲ってきちゃって。他の皆はゆっくり城下で買い物とかしてくとか言ってたから、ボクだけ先に帰ってきたんだ」
「そ、そうなのか」
そうなのか。
あんなに呑むからだ、バカ。
「王宮のコックさんの中にセイジさんいないかなー、て聞いたんだけど、知ってた?今は王宮にもいないんだって!それでガックリ来て、疲れてたし、抜け出してきたんだ」
「ふーん」またあの兄貴の話か。「僕もセイジ兄さんにはずいぶん長いこと会ってないけど、そっか、王宮ではもう働いてないんだ。でもきっと兄さん、マナのことなんか忘れてるぜ」
「そんなことないやーい!だあって、ボクたちお互いに初めて同士だったんだよ?タイジはまだ子供で、知らないからわかんないだろうけど、人間、初めての相手は死ぬまで一生忘れられないものなんだよ?ああ、ボクのファーストラヴ、セイジさーん」
「あっそ」
そんな話など聞きたくはなかった。
「ねぇ」とマナは改まってタイジを上目遣いで見上げ「今なら誰もいないよ?チャンスじゃない?」
タイジはその猫撫で声を聞いて再び心拍数を飛躍させ「な、なにがだよ?」
「もう、ほんと、だらしない男だね、タイジって」とマナはゆっくりとタイジに迫り「お兄さんとは大違いの弟だね」と、タイジの服を手で掴んだ。
「わ!バカ、マナ、やめろって」
タイジは逆らえない。
それどころか、為されるがままになってしまっている。
マナはタイジの着ているものを一気に脱がせてしまった!
「わー。やっぱり。おっきいい」
マナはタイジの服の下に潜んでいたそれをつぶさに観察した。
「すごい…思ったとおりだ。こんなにはっきりと大きいなんて…」
マナはタイジの大きいそれを小さな妖精のような手でゆっくりと撫で回した。タイジは素肌を触られてすっかり仰天してしまっている。
「あ、ちょっとあったかくなってきた」
マナが見たのは、タイジの脇腹に出来た不可思議な紫色のアザだった。シャツを無理矢理捲し上げられたタイジは、これからどうなることかと目をつぶってしまっていたが、マナが自分のアザを見ているのに気が付くと、そっちの方が良かったのか期待外れだったのか、自分でも分からず「こ、これ、なんだか分かるの?」と上ずっ た声で尋ねた。
「さて、なんでしょうね」と言うとマナは手を放し、タイジのシャツを下ろしてピシャンと脇腹を叩いた。
ピシャン!
「いて!」
「うふふ。そんなに簡単にボクとできると思ったら大間違いだからね。タイジちゃん。さ、サボってないで仕事しちゃいな」
すっかり玩具にされてしまったタイジは「くそぅ」と、情けない声を出してマナの部屋を後にするしかなかった。
タイジがよろよろと出て行った後、マナはベッドに大の字になって天井を見上げ、しかし幾らか真剣な表情で「あいつ、どうやって超人になったんだろ?」と一人ごちた。
午前の眩い陽射しが映える王宮の間で、マナは魔術大学の学長から授かった書状を勇ましく読み上げ、東南王国を治める女王陛下の御前で挨拶を行っていた。髪は静かに光りを帯びた黒に戻り、重々しく丁重に跪いて、背後に七人の同期を従えたその様はまるで出陣前の騎士小隊のようであった。
「お若いのに」と、マナの言葉が終わると女王陛下は穏やかな笑みをお見せになり、異国の学生達を労わるように、慈悲に満ちたお声で優しく仰られた。「そなたらの国が魔術という新しい分野に取り組まれるようになってからそれほど時はたっていません。ですが、もうこうして若い学生を送ってこさせた。それは誠に目覚しく、立派なことであります。マナさん、と仰いましたね?」
「はい。女王陛下」
マナは唇をキッと張り詰めた真剣な表情で、かつて自分が属していた国の最高権力者を見上げた。そこには昨夜のふしだらな姿の余韻は微塵もない。
「正直私は、あなた達のような若くて将来有望な方々を、あの場所へ向かわせたくはありません。貴国での風潮がいかなるものか、私にはいささか分かりかねますが、件の地下道は、世に得体の知れぬ強暴な異生物達がはびこるようになってから、それに抗する目的で、軍の中に超人を募らせる為、試練の場所として我が国が管理して扱っている区域なのです。決して、一般の市民や無関係者が立ち入らないように呼びかけています。そんな場所で、記念すべき第一期卒業生でもある貴方方が向かわれて、それでもし命を落とすようなことになってごらんなさい」まだお若い女王陛下は憂いをこめられた瞳で窓の方に視線を移しなされ「もし、そうなればそれは国家間の問題にも発展しかねません。中央国の旅人が我が東南国の、それもわざわざ身の危険が保障されているダンジョンなんかでもしものことがあったら、それはすぐに国際問題になります」
王宮の間には、重力を帯びた沈黙が漂っていた。女王陛下は予め、中央皇国からの要請状を受け取っておられたが、明確な了承の返事を今日まで出されずにおられたのである。
「政治の問題もありますが、何よりも、私が懸念するのは、貴方達の命のことです」女王陛下の御目には、我が子を愛おしむ聖母のごとき慈愛の影がさしている「貴方方はこの大陸、この世界で、最も魔術研究の盛んな国家の中枢にいる、選びに選び抜かれた貴重な存在です。大いなる未来と期待が、貴方達の行く末には控えているのです。魔術を志す者たちだけには限らない、たくさんの人々の希望でもあるのです。そんな貴方方が、もし凶悪な異生物の毒牙にかかって命を落とすようなことになったとしたら…それは大変な損失となります。だから私は兼ねてから、貴方達のようなまだお若い人たちを…」
「失礼ですが」
ところが、女王陛下のお言葉がまだ終わらぬうちにマナが口を挟んだ。
「お言葉ですが、女王陛下。我々はただの一人も護衛の兵をつけることなく、その異生物達が徘徊する野山を越え、国境を渡ってきました。陛下が我々がまだ若いと思われて、その力を見誤っているのだとすれば、それは少々遺憾でもあります。我々魔術アカデミーの生徒は、既に野山の異生物達を撃退するには充分な魔術の力を備えております」
国の権力者を前にして一歩も引かないどころか、尊厳を傷つけられたと悟って、途端に感情的になってしまったマナ。その大きな瞳には、決して引き下がらないぞという強い、無垢な頑固さにも似た意志が宿っていた。
「おい、マナ、やめるんだ」と後ろに控えていた、最年長のジンベという魔術師学生が小声で叱咤した。
「陛下に向かって失礼だぞ」と別の仲間も。
普段から感情的になりやすいこのお転婆少女をなんとかなだめようとする。
だが、女王陛下は突然お顔を崩して、高貴な笑い声を発せられた。
「おほほほほ。そうですか、マナさん。分かりました。私はあなたが気に入りましたよ」と上機嫌で「それだけの威勢と自信があれば、何も問題は無いと受け取っても構わないのですね。いやはや、少しでも貴方達を過小評価してしまったことを許してくださいね」
拍子抜けしたのはマナの方だ。俄かに緑色の按配が増してきていたその髪も、なんだか中途半端に治まりつつある。
「兵士長。この者達を暗黒の地下道へ立ち入らせることを正式に許可いたします。後はあなたの方から説明をしてやりなさい」と陛下は側に控えた重々しい鎧に身を固めた剛健な男に指示をなされた。
「あ、ありがとうございます。女王陛下。このご恩は決して疎かには致しません」と再びマナはかしこまって頭を垂れ「必ずや全員の無事帰還を約束いたします。陛下の名誉にかけて、最深部にある水晶の光を手に入れてきます」
暗黒の地下道の最深部。『すべてがはじまった地』と伝承されることもある、その秘境の奥に、人知れず光を放ち続ける不思議な水晶がある。その光に照らされると、特殊な紋様が採取できる。決して人工では似せることの出来ないその証を以って、ダンジョンに挑んだ超人たちは試練の達成の証明としているのである。
その光こそが試練の合格証明であった。
「ふふふふ、期待していますよ、マナさん。でも…」と陛下は玉座からお立ち上がりになり「私からも、一つ条件を出ささせていただきます」
「?」女王陛下の発言に、魔術学生一団はきょとんとして、顔を見合わせる。よく見れば、先ほどの重苦しい顔をした兵士長も僅かに不安げな表情になっている。
お若い頃は散々、突飛なお振る舞いをなされては、周囲の者達を困らせていたこともある女王陛下は、昔日のご自身の姿の片鱗を垣間見た少女マナに向って、少しの厳しい声で、仰られた。
「マナさん。もし、不幸な結果になったとしても、我が国としては、その結果に対してなんらの責任も負いませんこと、先の文言にもありましたとおり、そこのところだけは覚えておいてくださいね。もちろん、マナさん達なら、そんなことにはならないのですね?」
「はい。陛下。我々は断じてそのような無残な成果を残すつもりはありません。ご心配なく」
こうして、マナは王宮での役目を果たした。
その日、タイジは朝早くに王宮へ出掛けたマナが、出来ればそのまま帰ってこなければいいとさえ思っていた。また、僕のことを馬鹿にして…やっぱり会いたくなんかなかった。
だが、そう思う反面、想いを寄せるマナがいるという一種の、彼にとっての緊急事態に心は揺らぎ、どうにも落ち着かない気分になっていた。
昼食の時間が過ぎると、昨日と同じように全室の掃除が待っていた。もちろん、掃除を行う部屋の中にマナが宿泊している留守中の部屋も含まれていた。
「あいつ…」
何部屋もまわった後、タイジはしぶしぶマナの部屋に入り、空になったおびただしい数のワインボトルが転がっている様を見て「ほんと、なんも変わってないんだから。遊び人め!」とこぼしながらも、他の客室でそうするように、アルコールの染みた床をモップで拭き、カーテンを整え、そしてドギマギしながらシーツを取り替えた。ベッド周りに散乱していた見事な緑色を湛えた翡翠の如き髪の毛を目にして、早くこの場から立ち去ってしまおうと、傍から見たら熱心とも云えるような珍しくテキパキとした機敏さで作業を続けた。
「カバンも無雑作にこんなところに放り投げて」と、マナの開きっぱなしの旅行カバンを閉めようとする。
すると、そこに木枠に納まった一枚の小さな肖像画があるのに気が付いた。
「ん?なんだこれ…」
それは壮年の男性の絵だった。どうせ男好きのマナの情夫か誰かだろうと思ったが、緑色の髪をした凛々しいその顔立ちから、それがマナの父親であることが窺われた。首の下の位置に小さな文字で「最愛のパパ」と書かれていることからも、その人物がマナの父親であることに疑いの余地はなかった。更にその文字の下には生没年らしき年号も刻まれていた。マナの父親が死んだ年は、マナがこの国から姿をくらました年と一致していた。つまり去年。
「あーー!ヘンターイ!」
タイジは素早く振り返った。
「ちょっとぉ、いくらボクのことが好きだからって、そういうのは無しにしてくれるぅ?」
「いや、違うって!マナ、僕はただ掃除…」
タイジは完全に泡を食っていた。まさかもう帰ってくるとは思ってもいなかったし、こんな気まずいところを見られるとは!
「ちょっとぉ、タイジったら、ボクが好きだからってパンツとか持ってかないでくれるぅ?ボク、そういうムッツリな男は嫌いだよ?」とマナはわざと大声を上げ、怒っているようにも、からかっているようにも見える形相でタイジに近づいてくる。
「欲しかったらローン組んで売ってあげるからさ!勝手にお気に入りの持ってかれたりしちゃ困るんだよねー」
「ば、ばかやろ!お前のしししし下着なんか、ちちちっとも欲しくな」
タイジはすっかりパニックになってしまっている。
マナはそんなタイジに構わず、旅行カバンを閉めて「どうせやるなら堂々とやって欲しいよね。あんたがホントに下着ドロボーだったらさすがに絶交だよ」と冷たく言った。
「だから違うって!大体、お前のことが好きだなんて、いつ誰が言った!?」
「で、黒いやつとスケスケのと、どっち持ってったの?」とマナは悪戯猫の笑顔でタイジを諭した。
「ふざけるな!」とタイジもモップを床にダンッ!と打ち付けて自分を落ち着かせた。「ずいぶん早かったんだな」
「うん。女王様との謁見が思ったより早く終わって…。それで昼食をご馳走になったんだけど、ボク、急に昨日の二日酔いが襲ってきちゃって。他の皆はゆっくり城下で買い物とかしてくとか言ってたから、ボクだけ先に帰ってきたんだ」
「そ、そうなのか」
そうなのか。
あんなに呑むからだ、バカ。
「王宮のコックさんの中にセイジさんいないかなー、て聞いたんだけど、知ってた?今は王宮にもいないんだって!それでガックリ来て、疲れてたし、抜け出してきたんだ」
「ふーん」またあの兄貴の話か。「僕もセイジ兄さんにはずいぶん長いこと会ってないけど、そっか、王宮ではもう働いてないんだ。でもきっと兄さん、マナのことなんか忘れてるぜ」
「そんなことないやーい!だあって、ボクたちお互いに初めて同士だったんだよ?タイジはまだ子供で、知らないからわかんないだろうけど、人間、初めての相手は死ぬまで一生忘れられないものなんだよ?ああ、ボクのファーストラヴ、セイジさーん」
「あっそ」
そんな話など聞きたくはなかった。
「ねぇ」とマナは改まってタイジを上目遣いで見上げ「今なら誰もいないよ?チャンスじゃない?」
タイジはその猫撫で声を聞いて再び心拍数を飛躍させ「な、なにがだよ?」
「もう、ほんと、だらしない男だね、タイジって」とマナはゆっくりとタイジに迫り「お兄さんとは大違いの弟だね」と、タイジの服を手で掴んだ。
「わ!バカ、マナ、やめろって」
タイジは逆らえない。
それどころか、為されるがままになってしまっている。
マナはタイジの着ているものを一気に脱がせてしまった!
「わー。やっぱり。おっきいい」
マナはタイジの服の下に潜んでいたそれをつぶさに観察した。
「すごい…思ったとおりだ。こんなにはっきりと大きいなんて…」
マナはタイジの大きいそれを小さな妖精のような手でゆっくりと撫で回した。タイジは素肌を触られてすっかり仰天してしまっている。
「あ、ちょっとあったかくなってきた」
マナが見たのは、タイジの脇腹に出来た不可思議な紫色のアザだった。シャツを無理矢理捲し上げられたタイジは、これからどうなることかと目をつぶってしまっていたが、マナが自分のアザを見ているのに気が付くと、そっちの方が良かったのか期待外れだったのか、自分でも分からず「こ、これ、なんだか分かるの?」と上ずっ た声で尋ねた。
「さて、なんでしょうね」と言うとマナは手を放し、タイジのシャツを下ろしてピシャンと脇腹を叩いた。
ピシャン!
「いて!」
「うふふ。そんなに簡単にボクとできると思ったら大間違いだからね。タイジちゃん。さ、サボってないで仕事しちゃいな」
すっかり玩具にされてしまったタイジは「くそぅ」と、情けない声を出してマナの部屋を後にするしかなかった。
タイジがよろよろと出て行った後、マナはベッドに大の字になって天井を見上げ、しかし幾らか真剣な表情で「あいつ、どうやって超人になったんだろ?」と一人ごちた。
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