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オリジナルの中世ファンタジー小説
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マナとタイジはそれぞれ新しい馬に跨り、低い柵の内側に立った旅籠の主とフーテンの旅芸人、二人に向って手を振った。
気持ちの良い晩夏の陽気の中、二人の幼馴染の旅人は、しばし、黙ったまま馬を進めていた。
タイジが選んだ二頭の馬は、大人しく従順的で、すぐに二人に馴染んだ。
「……」
もっともそれは、午前のうちから幾分厳粛な雰囲気で歩を進めているからかもしれない。
タイジは、マナが今どんな心境にあるのか、心の中で探ろうとしていた。
想像以上に過酷だった試練を乗り越え、いよいよ帰路につくことになった。死んだ仲間達のことを彼女は考えているだろうか?あるいは、この一連の事件の不可解な謎について考えているのだろうか?
タイジの神経質な思考は、ところがふいに『遂にマナと二人きりになれた』という甘酸っぱいテーゼを掘り起こした。
「……。」
とはいえ、なんとなくお互いがそういう浮ついたムードに、今はなれないことに気が付いている。
今、ここには三人目の仲間がいない。
サキィは国許に帰り、厄介事を少しも面倒と受け取らず、後の始末をやってくれると約束し、去っていった。
タイジの生家である宿屋に寄って、ことの経緯を納得のいく形で、多少のごまかしも交えて説明する。魔術師学生達の荷物をマナに指示されたとおりに処分する。何よりタイジの母親に息子が戻ってこないことを言い渡す。宿の代金の件については既に解決済みだった。
マナ達が置いてきた荷物の中に、どうしても手放せないものは含まれていない。そうした旅の必需品は、彼女が今携帯している革袋の中に入っている。
少し前を進んでいく少女が背負った袋を眺める。幾分、窮屈そうに膨らんでいる。中に、死んでいった仲間たちの遺品が詰められているんだ。
マナの持つ道具袋の中には、汚れた衣服や魔術大学で支給された杖なんかが丸められて収められている。
超人の死は完全なる肉体の消滅。遺骨を残すことも、土の下に埋葬してやることも出来ない。だから、故人の纏っていた装備は、何よりも重要だ。遺品にこそ、逝ったその人の魂が宿っている。
マナは魔術大学に戻ったら弔いをするつもりだと言っていた。それまでは絶対に死ねない、とも。
馬鹿騒ぎをしていたとはいえ、失った仲間の命はあまりにも重たく、大きい。彼女はその七つの命を一身に背負って、旅を続けているんだ。
タイジは馬の背の上で、動きやすいゆったりした己がズボンの、ポケットにそっと手を差し入れた。
金の筒を取り出す。
あの異生物『七つの融合』に、決定打の雷撃を食らわした直後に手にしたもの。怪物の体から飛び出した拾得物。純金製の、細やかで複雑な模様の装飾が施された筒。
異生物の身から転がり落ちた円筒状のそれには弁のような蓋が着いていて、側面にサインのようなものが掘られていた。今は手に握ったところで何の第六感的感触もないが、それが何某かの魔術が籠められたアイテムであるだろうことが、如実に窺われた。
これはきっと鍵になる存在。タイジは直感を信じていた。
だから、昨夜出くわした奇抜な魔術師学生達にも、仲間の誰にも、この金の筒のことは話していなかった。
その時が来たら、きっとそれは明かされる。
真実と、陰謀。
僕を中央国で待っているものはなんなのだろう……マナとの二人旅。それは本当に僕の願ったものだった?また何か、とてつもないことに巻き込まれそうになっている……
タイジが黙々と片思い中の少女の後を歩んでいると、俄かに背後から音が聞こえ始めた。
「おーーーい」
高原を吹き抜ける爽やかで勇ましい風。その風の音の内に、聞きなれた声が含まれている。
「待てよ、おーーい!」
馬を駆る音が聞こえてくる。蹄の、小気味良い連続音。やがて、軽装の鎧のこすれる音が…
ヒヒーーーン!
馬のいななきと共に、急ブレーキをかけて地の土がめくれる音。
「サキィ!」
「おっと、待った、お二人さんよ!」
サンサンと輝く太陽の下、そこに、頼もしい獣人の姿があった。
鎖帷子を身に付け、新しい鉄製の盾と剣。馬上の鞍の上で、彼のヒョウ柄の尾っぽが踊っている。
「ヤアヤアヤア、俺の名は、さすらいの剣士、サキィ・マチルヤ!東南国の城下町で鍛冶屋をやっている家のドラ息子とは、赤の他人よ!俺は旅の剣士!こうして武者修行の旅をしている!旅人さん方よ、御用とお急ぎでなけりゃ、ちょっと俺の話を聞いていきやがれ!」
マナもタイジも、それを聞いて思わず顔を合わし、たまらず吹き出した。
タイジは久々にマナの笑顔を見た気がした。よく晴れた太陽の下で、彼女の髪の緑が透明に映えている。
「魔術師と回復役だけの二人旅じゃ、こっから先は危なっかしいぜ。ここはアタッカーが必要だろ!」
タイジは笑いをこらえながら「どうしたんだよ、サキィ」
馬上の獣人剣士は芝居めいた物言いを崩して「へへ、親父に正式に勘当してもらったよ。あの野郎、最後には俺を認めたみたいだな。名前を捨てるついでに、とっておきの餞別を寄越しやがった」サキィは背中の鞘から剣を抜いた。刀身はどこまでも光り輝いて美しい。柄の部分に、風車のような装飾が施されている。今までのものよりもいっとう鋭く長い、強力な武器だ。「この剣の力が、お前らには必要だろ」
マナはお腹を抱えて笑っている。
タイジは答える「ああ、よろしくな、サキィ」
サキィ・マチルヤが仲間になった!





それぞれの旅路。
突然連れ出され、仲間の敵討ちを手伝わされた寄る辺ない宿屋の息子だったタイジは、そのまま生家に戻ることなく、国境を越え、中央国首都であるボンディの都へと向っていく。
前科持ちであることを理由に改名をした獣人の剣士、サキィ・マチルヤも一緒だ。
三人の冒険者は北に進路を取り、並み居る異生物たちを或は剣で、或は魔術で、巧みに退け、馬を駆り、幾つかの町々に滞在しながら、歩みを進めていった。
サキィが実家の鍛冶屋から持ってきた自前の剣の切れ味は大層鋭く、大抵の異生物は彼の豪快な一振りの前に平伏していった。
また、マナの詠唱する攻撃用の魔術も、それを過不足無くサポートし、二人より遅れることままあるとはいえ、タイジの後方からのボウガンによる射撃、また難敵に対して放たれる必殺の電撃呪文パープルヘイズ、そして味方が傷ついた時にはすかさず回復の魔術を使用するという万全の補助。この攻守バランスの取れたフットワークによって、タイジ、マナ、サキィの三人は魑魅魍魎溢れる危険なフィールドを順調に踏破していった。
その行く手に、未だかつて無い恐怖が待ち受けているとも知らずに…。



季節は夏から秋へと、移っていった。
そこには、いくらかの時間と空間の、隔たりがあった。
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「よくぞ、戻られました」
三人の従者を後ろに従え、隠者めいた装いをした、まだ若いその少女は女王陛下の前に跪いていた。
マントのついた旅装を身にまとい、顔はフードに半ば隠れている。まるで、常に他者から求めを受ける自己の価値を貶めるかのように。もしくは、その価値を自ら高めて、それを与えまいと意地悪をするかのように。
だから玉座の間の、壁に立つまだ新任の兵の一人が、横に立つ同僚についつい小声で話しかけてしまったのも無理はない。
「なあ…あれが、噂の…」
「そうか、お前は見るのは初めてか」
それを遮るように陛下のお言葉。
「宮廷副楽長……あなたの顔を、見せていただけませんか?」女王陛下はやんわりとした口調で『お願い』をなされた。
そう!
宮廷副楽長と呼ばれた彼女は、主君の前にあっても、ぶしつけな覆面行為をやめようとはしなかったのだ。
それは、あまりに多くを持ちすぎる彼女の、高慢さや虚栄心、自己愛過多や反逆心などでは決してなく、あくまで『自由であること』という信念に基づいての無作法であった。
「な!女王様に対して、顔を隠したままだなんて」
「あのお方は有名人だ。おいそれとは素顔をさらせまい」
その有名人の後方、同じように跪いた三人に至っては、完全に全身をすっぽりと衣で覆い、肌のほんの極一部も外気には晒していない。
小人族の亜人とも想像されるほど、やや小柄な三名の完璧なる極秘性、匿名性は、そのまま一団の代表である彼女の威厳に依存していた。
しかし、彼女はマントのフードを降ろし、その頭部を王の間に居合わせた人々の眼に晒した。
「ちっ、こっからじゃ後ろしか見えない」
「そうだ……あれが 太陽の天女 と呼ばれている…」
「失礼しました」申し訳なさそうなニュアンスを少しも含まずに、彼女は告げた。
その声は、誰が耳にしても美しいと感じる部類。芯があり、聡明で、いかにも女性らしい澄んだ声色だった。
ところが、声に比すると彼女の顔には、そこまで特異な美は見受けられなかった。
均整の取れた、知的で美麗なラインの相貌。亜麻色の髪の毛は少し長めに、ふんわりと広がって、暁の海岸線のようなゆるやかなウェーヴを擁している。微細な金の入った純白の二つの瞳。
金細工のごとき整然性、清らかな雰囲気を保ちつつも、どこか気の遠くなってしまうような夢幻的なおぼろげさ。
しかし、絶世の美女というわけではない。
マナ・アンデンのような小悪魔的、あるいは動物的な愛らしさが含まれているわけでもない。
言葉をかえるなら、他を押しのけるような独特の美の頂点を築くではなく、あくまで平均的な造形の中で最高峰を狙うような、凡庸性の最上級とでもいうべきか。
それでも、わざわざ女王陛下が依頼をなされて拝顔したいと願われたその顔から放たれているのは、圧倒的な慈愛と安らぎのオーラであった。
「彼らは、中央国へと旅立っていきました。必要なことはすべて済ませ、私に出来ることも、これ以上はありません。今のところ…」淡々と報告を続ける「周知の通り、魔術大学の学生のうち、七人はこの国で命を落としました。その件で、近々隣国との関係が硬直化するかもしれません。でも、それは一時的なものに過ぎないでしょう。問題はあくまでかの国の中にあります。そして、それはいずれ明るみに出され、しかるべき後に滅ぼされます。真実は義と共にあります。外部である私たちに、どうこう出来ることではありません。もちろん、人の命が失われるのを救うことが出来なかったのは、私としても、とても心苦しいばかりです。きっとそれは陛下も同じ気持ちだと、思っています」この時ばかりは、女王のお顔に、暗い影の幾分かがさしたのを確認することが出来た「私はあくまで、私がしなければならないこと、最も大切な瞬間に居合わせ、そして手を貸すこと……それを果たして、今ここにいます。それ以下でもそれ以上でもありません。恐らくは、彼らにも気付かれてはいないでしょう」
「本当に、ご苦労様。あなたは立派な働きをなさったのだわ、宮廷副楽長」
また壁際の一角でヒソヒソ声で「副楽長?さっきから……あの少女が?」
「非常勤のさ。我らが王宮の宮廷楽長は一人しかいない。あの位は…」
「いえ、宮廷副楽長と私が呼ぶのは、私の子供っぽい我儘と押し付けでしかないのよね。それはわかっているのよ、コハク」
コハクと呼ばれた少女はおもむろに瞳を閉じて首を横にふり「いえ、女王様。私は自分が、芸事を生業とする職業のものであるということに、何より誇りを持っています。あくまで、私は一介の旅芸人でしかありません」
「その一介の旅芸人を留まらせる為に、私は位を与えてしまった…あなたに」
「光栄に思っています」
「いいえ、それは私の押し付けに他なりません。あなたにここにいてほしいがばっかりに…」
「私には今まで地位などありませんでしたから」
「だけど、あなたは行ってしまう。いつまでも、この王宮にいてはくれない」女王陛下は、目の前に跪いた人物が、遠くない未来、自分の元を離れていってしまうことを、とても寂しそうに想いながら、仰られた。
「己の芸を磨く為の、修行の旅に…」コハクはユーモアをこめて答える。
「あなたが望む暮らし、身分、財産、なんでも私は捧げるというのに…」およそ一介の市民が聞いたら、幸福感で急逝してしまいそうなお言葉を、女王陛下はそのお口元から発せられた。「そういうものに、あなたは興味はないのでしょう?どんなことをしても、あなたは私の元を…この国を去っていってしまう」
「この地で残っている、私のすべきことは、もう限られています。いずれ、この暁の国……いや、その名はまだここではありませんでしたね」
女王陛下はコハクの口から不意にこぼれ出た一語に、俄かに首をお傾げになり「その暁の国も、あなたがいなければ黄昏になってしまうわ」
黄昏はここではありません。それに、まだ夜明けにすらなっていない」不敵な少女は巧みに言葉を紡いだ「誰にも、私をとらえたままにしておくことはできません。また、時が前へ前へと進み続ける限り、離別は必ずやって来ます。でも、それは少しも悲しむべきことではありません。人が自由でいる為に、必要なことですから」
王宮の間に控えた女王陛下の家臣たちが、この一言を聞くと、誰しもその尊大な態度に唖然となった。なんと恐れ多いことを!女王陛下に向って!
一介の旅芸人が口にして良い領域を、はるかに超えていた。
だが、同時に、ここまで自分の言葉を真っ直ぐに発言できるコハクという少女の器の大きさに、自ずと畏敬の念を抱きもした。
人は誰しも、自分には到底出来ないことをさらりとやってしまう人間を目の当たりにして、尊敬と恐れを少なからず抱くものである。
「私はこれから、ある人物を探さなければなりません。その者を見つけ、しかるべき時刻、しかるべき座標、しかるべき場面へと向かいます」
「その捜索に、私の力は役に立たないのかしら?」一国の主がなんと勿体無いことを仰られるのだろう!
コハクは一礼をして、そろそろお暇を頂く素振りを見せた。
「王宮の調理場…料理長に会いに行きます。わずかでも手がかりをつかめるかもしれません。その後は…」コハクは立ち上がり、安らかで、どこか挑戦的かつ邪気のない、太陽のごとき澄み渡った顔を女王に向け「まるで大海原に落とした真珠の首飾りを探し出すようなものです」
立ち上がったコハクの手の中に、空になった小さな丸い小瓶が握られていたのを、後方から目をこらしていた新米兵士は確認していた。
それはタイジが水晶の光に触れた手で掬った薬品の、残された器であった。




東南国王宮での用をすべて済ましたコハクは、三人の背の低い従者と共に、城の裏門を出ようとしたところ、既に噂を聞きつけ集まっていたサボウルツ市民たちに取り囲まれた。
「コハクさま!」
「コハクさま!こちらをお向きになって」
「太陽の天女殿!どうか、わたくしの…」
晩夏にも関わらず、厚みのある法衣をまとった四人組は、馬にも乗らずにいたものだから、たちまち辺りを群集に囲まれてしまい、身動きが取れなくなった。
「これは女王陛下の、せめてものお仕置きでしょうか…」コハクはフードを再び外し、口辺に笑みを浮かべて小さな声で呟いた。後方の、小人の如き背丈の三人の隠者は何も答えない。まるでそのローブの中に、肉体などない、実体の無い存在であるかのように。
コハクは唇を緩やかな弓なりに微笑ませたまま、瞳を閉じておしとやかに歩を進めた。
「コハクさま!」
「宮廷副学長殿!」
「コハクさま!歌を聞かせてください!」
「太陽の天女さま!」
皆が自分を呼んでいる。自分の名を、自分の二つ名を呼んでいる。
しかし、コハクは答えない。
ただ、静謐なる微笑を浮かべたまま、無言のうちに「道を開けよ」と訴え、そして人々の群を離れようとする。そこに悪意はない。しかし、人々の願いは届かない。
「コハク様!ああ、コハク様!」遂に思い余った一人の女が、コハクの歩む道を塞ぐように躍り出た。「コハク様!この子に、私の娘に、祝福を与えてやってください!」
血走って息を切らせた母親は、まだ幼い娘を盾のように自分の前に突き出し、コハクの行く手を阻んでいる。
「お願いです!コハクさま!どうか、どうか、この子に!この子に祝福を下さりまし!どうか、ほんの一節で構いません!歌ってくださいまし!一生のお願いにございます!」
出過ぎた女の行いに、さすがに周囲の人々も眉をひそめた。あまりに不躾であろう!あんなにも小さな娘を突き出して、太陽の天女さまの施しを受けようとは。
一方、厚かましい母親に背中を押されて直立不動となっている小さな幼女は、眼を丸くして恐れおののいている。自分の身に、一体何が起こっているのか理解できていない様相。
「ぁ……ぁ」
太陽を直視したことがあるか?
あの天空に一つ輝く、この世で最も明るい存在を。
何秒間、あなたはそれを見つめていられる?目を背けずに、見開いて、太陽を!一体、どれだけ長い間、人は見つめ続けることが出来るだろう。
やがて網膜は容赦なく焼かれ、いずれその瞳は損壊し、しまいにはあらゆる光をすら見ることが出来なくなってしまう。
「ひ……」
両足で立って歩けるようになってから、さほどの年月も経過していないと思われる寄る辺ない幼女は、既に全身から汗をふきだし、逃れることの出来ない恐ろしさから、硬直した小さな体を細かく震えさせ、母親は何故こんな拷問のようなことを強いるのか、その悲痛な訴えすら出来ず、次第に加速していく動悸と遠のく意識、ただ一つだけの救いは、今自分の両目で見つめている人物に、決して殺気や威圧、須らく死の気配の皆無なこと、そこにあるのはあくまでも『光』であり、生命の不滅であり、極限状態に追い込まれながらも自分を辛うじて保っていられるのは、彼女から発している聖女の慈愛であった。
「……。」
宮廷副学長の名を女王陛下から頂いていた少女は、幼女の顔をほんの一瞬垣間見ると、黙って笑みを投げ掛け、そのすぐ脇を迅速に通り過ぎてしまった。
「コハク……さま…」母親は愕然となった。
誰にも彼女をとらえる事は出来ない。
人々が、彼女の稀少性に打ちのめされた瞬間であった。
群集はもはや彼女の足を止めようとする意欲を失い、ただ去っていく、自分たちには決して手の届かない存在を見守るしかなかった。
三人の小柄な隠者も、倣うように後に続いた。
「ぁ……あ!」
哀れ。
傲慢なる母親に無理矢理押し付けられた小さき娘は、コハクが自分の元を去ってから数秒後、直立不動のまま失禁をしてしまった。
黄色い尿が大地に染み渡っていく。
だが、母親も、周囲の大人たちの誰一人として、彼女の放尿を責めはしなかった。もはや、太陽の天女は物理的にも精神的にも、届かない位置に行ってしまっていた。
「予想通り、厨房での聞き込みは徒労に終わった」コハクは東南国王都サボウルツの郊外に立って、茫漠たる大草原を前に「後は一応、念のため、あそこにも足を運んでみるけど…気休めにもならないわね。今度の旅は、長くなりそうだわ」
完璧に全身を隠した三人の従者は依然、声を発しはしなかった。
ここで、タイジ達一行が向っている中央国がどのような国家であるか、その紹介の一環として、かの国の王宮でのやりとりの一部を、ここに記述しておこうと思う。



ケヴィン・スィーゲル・ナミノ・ウォーカー皇子は、金銀細工と珍獣の毛皮とをふんだんに使用してあつらえた豪奢な玉座に、まだお若いその身を気だるそうに沈め、肘掛に右腕を乗せ、親指人差し指中指の三本指でこめかみの辺りを押さえつつ、家臣の言葉をお聞きなされていた。
「次回の会談で主題となっている超人職の件なのですが……」痘痕顔のヘンリー・パームは背に冷や汗の流れるのを感じながら、頭を深く垂れたまま若き主君に向って「我が国でも入念な調査をここ半月、徹底的に行ったのですが……」
「生憎この国にゃ、目ぼしいのは魔術師ぐらいしか見つからなかった……そう言いたいんだろ?」
ヘンリー・パームはそのお言葉に僅かに首の角度を上げ、主君の履いている鋭角的な革の靴をじっと見据えた。
「お、恐れながら!し、しかし、他にも腕の立つ剣士や、深き森の地を住処としている狩人の類も…」
「凡庸だ」皇子はうっちゃるように「超人の剣士狩人なんて、所詮基礎体力が違うだけで、一般の兵士や樵と変わらないだろ。魔術師だって、実戦で役立つほどの超人水準に達している奴は、ほんの一握り。それじゃ自慢にはならないよ。そんなんじゃなくて……例えば、ホラ、我が国の各地にある古代遺跡…異性物どもの住処となっているにも関わらず、熱心に探索している者がいると、以前魔術アカデミーの人間が言っていたぞ?なんでもそいつらは、ただの力押し馬鹿じゃなくて、探索に特化した妙技を使いこなすとか…」
「はっ!私どももその噂を聞き、手を尽くして探したのですが…」
不甲斐ない部下の語調に、ケヴィン皇子は苛立ちを募らせて「ハンッ、見つからないのも当然だ!遺跡荒しなど、盗賊の所業と同じようなもの。もし俺がその職の者だったら、自分の素性をバラすようなことは絶対にしない」
出鼻をくじかれ、報告者ヘンリーは悔しそうに下唇を噛んだ。
皇子は聡明だ。気性が激しいとはいえ、その頭脳は素早く回転し、抜かりがない。若くして王位を継ぎ、この中央国を支えてきただけのことはある。
「まったく!こんなんじゃまたあの女王に見下されちまうじゃないか」皇子はイライラと、指で肘掛をコツコツと叩き始めなさる「俺が年下だからって、いつもいつも、上から目線で……厚かましく話し掛けてきやがる、あのクソババァ!」
「!」
ケヴィン皇子の発せられた隣国の女王陛下に対する、あまりに無礼な侮蔑のお言葉に、場に居合わせた一堂は青くなってどよめき出す。
「少しでも、あいつより優位に立てる情報を集めろっていつも言ってるだろ!でっち上げでもいいから……いつまで魔術師だけを売りにしてやっていくつもりだ?もっと新しいネタを持って来いよ。使えないまやかし使いどもなど、もう用はないんだよ。クソ!こうなったらその遺跡荒らしどもをなんとでも捕まえて…いや、見つからないか。連中はかくれんぼのプロフェッショナルだ」
その時、皇子の仰られた『かくれんぼ』という言葉を聞いて、玉座の横に並んだ皇族の一人がクスリと笑いを漏らした。
彼は皇子がまだ幼い頃、遊び相手として連れてこられた貴族の子供たちとかくれんぼをした際、強引なルールで以って、皇子が彼らに過酷な罰ゲームを施していた風景を思い出したのである。
ギロッ!
ケヴィン皇子は笑いをこぼした血族の一人を睨みつけなされた。部下は素早く笑みを消した。
「いいか…とにかく、まだ時間はある。なんとしても、平凡でありきたりな魔術師とか剣使いとかじゃない、もっとあの女の鼻をあかすような職の者を、徹底的に調査してだな…」
すると横に立った先ほどの男…皇族にして財務長官のサイラスが、すっぱいものでも口に含んだかのような顔をして「殿下、我が中央国の国民の数には限りがございます。超人と呼ばれる者の数はその中でも極僅か。探しだすのも一苦労かと…」
その時、かしこまったままのヘンリー・パームは「あっ!」という短い壮年の男の悲鳴を耳にし、思わず顔を上げた。
ケヴィン・スィーゲル・ナミノ・ウォーカー皇子は玉座からお立ち上がりになり、片手に怪しくも力強さを感じる鞭を手にし、マントの背をこちらに向けて屹立していらっしゃる。そのやや剛毛ともいえる雄々しい頭髪の上に冠せられた金の王冠の位置は、少しも乱れてはいない。
対して、小さき鬼人のごとき威圧を放つケヴィン皇子の背の向こうには、片目を手で覆い、そこから赤い血を垂らしながらうずくまっている財務長官サイラスの姿も見えた。
「……」皇子は黙されたまま、片手に鞭を握り締め、微動だになさらない。
七年前の終戦以来、長年続いた王位継承を巡っての血生臭いお家騒動が尾を引いてか、不安定な国の情勢に、近年中央皇国を離れていく国民は後を絶たなかった。
国家とはいかに市民の信頼を得てかで、その大きさがはかられるもの。
そして、多くの移民者が移民先として希望するのは、豊かな国土と善政で知られる南の東南王国だ。
皇子は国民が自分の手の元を離れていってしまうことへの不安と焦慮を、口にこそなさらなかったが、心の内ではかなり気に病んでいらっしゃった。
故に、遠縁の身内とはいえ、財務長官は踏み込んではいけない茂みに無作法を施してしまったのだ。
ポタ…
床に血の一滴が零れ落ちた音が、緊迫した宮殿の一間にささやかに木霊した。
これが、唐突に転換したこの一場における、最初の音符であった。
つまり、ヘンリー・パームは主君が武具を抜き放った際の音を一切聞かなかったし、そのしなやかな凶器が、意図せず軽口を叩いてしまった財務長官の肉体を深く傷つけた際の音も聞き取れ得なかった。
皇子は超人である!
皇子自身が超人なのである!
「ぅぅ…ぐ」
顔面に激しい傷を負ったサイラス長官の、低く押し殺した呻き声だけが静かに王の間に響く。激痛を必死で我慢している時の、惨めな声だ。
通常、超人は異生物以外……特に一般の人間に向って、その超越的破壊力をもった力を行使することは禁じられている。中央皇国の法にもきちんと明記してあり、それを破った者には重い懲罰も用意されている。
だが、皇子は違う。
皇子は法の上に立つ存在!
サイラス財務長官の片目はもはや、決して開かれない。その傷は決して癒されることはない。
皇子は法に於いても人の上にいらっしゃられ、また力の上でも人を超えた位置にいらっしゃられる。
このことの意味は大きい。自身も超人であられる以上、超人に関わる件については真剣にならざるを得ない。
ケヴィン皇子は決して暗君などではない!幼少より謀略と愛憎の交差する複雑な血縁関係の最中におかれ、一時期は重い病にもかかり、お命も長くはないと見做され、それでも立ち直り、立派に王位を継承なされたお方。多くの苦難と逆境を乗り越えてこられたお方。
若くして逞しく肉付いてきたその両肩に、この中央皇国を背負っておられるお方。
この偉大にして絶大なるお力こそが、中央皇国の主たり得る所以。自分はこの若き主の為に、もっと努力をしなければならない!
「お話し中失礼……ケヴィン皇子、ご機嫌いかがかな?」
かしこまったままのヘンリー・パームが恐怖からではなく、半ば盲目的ともいえる情熱から、主君への忠誠心をより高めた矢先、呑気で牧歌的な壮年の声と、どかどかと大仰な足音が近づいてきた。
「おお、アーニー叔父貴、戻っていたか!」
ケヴィン皇子は後ろを振り返られ、帰還した大柄な男をお迎えなされた。
アーニーと呼ばれたでっぷり貪欲に太った中年の男は、身分の高いことを顕示するかのように豪奢で派手な服に身を包み、金のビーズをふちにまぶした絹の手巾で、汗をふきふき、なんとも滑稽な姿勢で、跪いたヘンリー・パームの横に立っている。
その傍らには護衛の兵士がキリッと顔を引き締めて直立している。
「ご苦労だった。西への旅は快適だったかな?」
ケヴィン皇子は先程の怒りをすっかり忘れたかのように、構えた鞭も手際よく腰に納め、再び玉座に腰を下ろすと、悠々尋ねられた。
「ええ、皇子。ヴェルトワール地方は何度訪れても、いやぁ実に素晴らしいところで……酒もうまけりゃ女も、びゃあ゛ぁ゛゛ぁうまひぃ゛ぃぃ゛ 」ふとっちょの皇族は下品に笑いながら、媚を売る入婿のように答えた。
「それは楽しそうだな。何より……ということは、今度こそ税の取り立てに成功したのだな?」
だが、皇子がさも当然といった風にお尋ねになると、彼の叔父は口元の笑みを消し、急に気まずそうな顔をした。
「皇子……それが……大変、申し上げにくいんですけど……」
「ヴェルトワール地方の領主、ヴェルディ卿は今回も税の支払いを拒否致しました」同行した横に立つ近衛兵が代弁した「長引く飢饉の為、収穫は不作続き。農民たちは明日をも知れぬ暮らしを強いられているとか。ヴェルディ卿は農奴からの奉納が激減していると主張し、我々の催促をものともせず、支払いを再延期する旨を殿下にお伝えせよと言い渡しました」
「加えて皇子……その…ヴェルトワール領にはこの頃、何やら腕の立つものが集まってきているとか、いないとか…」眉を八の字にして皇子のおじアーニーは添えた。
報告を聞き終えたケヴィン・スィーゲル・ナミノ・ウォーカー皇子は、まるで崖っぷちの独裁者が怒りを撒き散らす時のように、ぷるぷる震える手で額の王冠をお外しになり、それを肘掛横の小卓の上に置くと、沸点直前で抑制した声色で、こう告げられた。
「ナミノ皇家の血を引いている者だけ残れ、アンポンタン」
無言のまま、玉座に居合わせた家臣たち数名が退出していく。
自分の出番が終わってからも、ずっと平伏したままだったヘンリー・パームも、速やかに周りの者と連れ立って王の間を後にする。
部屋に残ったのは片目を潰されたサイラスとアーニー叔父貴らを含めて僅か四名の重臣。
兵士が扉を外側から堅く閉じるのを待ち、身内の者だけになったことを確認してから、ケヴィン皇子は例のアレをお始めなられた。
「命令したはずだ!今回こそ取り立ててこいと!これで何度目だと思っている!税の支払いは地方領主の義務だ!皇国の重要な財源なんだよ!バーカ!支払いをきちんとしないやつなんか大っ嫌いだ!」
「皇子、私も今回こそはお支払いくださいと、何遍も申し入れたのですが」
「結局取り立てられなかったじゃないか!」
「がんばったんですよ!これでも、がんばったんですよ!」
「いくら努力をしたからって結果は結果だ!今までと同じ!税を払わないってことは、王家への冒涜も同義!またしてもあのヴェルディ卿にコケにされたんだ!ちくしょーめ!」
ここで皇子はどこから取り出したのか、王族のみが使用することを許されている高価な羽ペンを手にとり、それを思いっきり投げつけなされた!
「大体、近頃の領主どもは調子に乗りすぎなんだよ!権力はすべてこの皇都ボンディに一点集中すべきものなのに!地方自治だの、恩貸地制上の明確な権利だの、人権の尊重だのとこざかしい理論を盾にして、言い逃れの免除、貢租の不払いを平然と言ってきやがる!お前ら、誰のお陰で隣接する各国からの脅威から守られてると思ってるんだ!」
皇子は狂気を孕んだ鬼のような目つきで、無言で立ち尽くしたままの家臣たちを見渡すと、おもむろに玉座に腰掛け、やや語調を緩めて続きをおやりになる。
「そりゃ、飢饉が続いていることは知っているよ。洪水、旱魃、そういう避けられない自然災害の報告は、こっちにだって届いている。俺だって、難聴やめしいじゃない」
家臣たちは黙したまま、お互いに目線を送りあう。
「でもよ、地代が払えないんだったら、せめてその女どもを寄越せよ!おっぱいぷるんぷる~ん!」
皇族とはいえ、こうした猥言はさすがに控えるべきであるものを、今の皇子のお怒りは、既に礼で抑制できる超自我の域を超えてしまっていた。
「女すら手土産に叔父貴に渡さなかったってことは、都には!この俺には何も差し出すものがないと!差し出すものがあるのに、あえて!差し出さない、拒否の意!俺を!この皇都を否定したということだ!」
それからしばし、玉座の間に沈黙が浸された。
ケヴィン皇子のお心に生まれた、闇の樹海が広がっていく。
俺を馬鹿にした…俺を否定した…俺に従わなかった…俺に歯向かった…俺を裏切る…あいつは、俺を裏切るつもりだ…
封建制社会において、王家の権力は決して万全とはいえない。
中世における中央集権はまだまだ未熟であり、王都は存在すれど、その国土のほとんどは、地方の領主、諸侯によって統治され、名目こそ『国家の土地』とされていたが、実質は領地は封建領主の持ち物であった。
封建の名の通り、領主は年貢で以って国家への忠義の意志を表していたが、国王と諸侯の間における契約は形式的になりがちで、国家は俗にいう『点と線の支配』を余儀なくされていた。
その理由の一つに、野にはびこる異生物たちが、人の行き来を極めて困難にさせていたという原因もある。
現中央国君主は、それを知っていながらも、尚、強硬な全体支配をお求めになられていた。
皇子が常に身につけ、愛用なさっている鞭のように、相手を縛り、掌握しておくことこそ、何よりも優先すべきことと考えておられたのだ。
やがて、皇子が口を開いた。
「ヴェルトワールにつわもの達が集まってるとかいってたな…」ケヴィン皇子は玉座にうなだれるように腰を沈めたままの姿勢で「叔父貴に持たせた俺からの書状には、きちんと『最後通告』と書いておいた」皇子の床を見る眼…その金色の瞳は、不安定に歪みゆく精神の度合いを示すように、病的で強迫的な色合いを帯びていき「討っていいのは、討たれる覚悟がある奴だけだ」
この歴史的名言の引用を以って、ナミノ家に属する中央皇国皇子の側近達は、その主君が下した命を、その意味を、瞬時に悟り、四人が一斉に蒼白な表情となった。あるいは、この時は、全員がそうした驚愕の表情を取っていた。
「兵を集め、軍を形成し、西へ進軍しろ」ケヴィン・スィーゲル・ナミノ・ウォーカー皇子は憤怒と落胆、半ば一方的な被害妄想、疑心暗鬼、それら強迫観念に駆られた暗澹たる瞳をこちらに向けられ「ヴェルトワール地方を焼き払い、ヴェルディ卿を抹殺しろ……街も、村も、田園も、すべてを荒地へと変えろ」
「先日の件には、ほんと、びっくりしましたわよねぇ」
東南国城下町サボウルツ。うららかな昼下がり。たくさんのご婦人方が、新櫟公爵亭の大テーブルを囲んでお茶会をしている。
超人事業連盟に加入する城下の商会の組合人たちによる定例会議が終わり、あとはゆっくり歓談談笑井戸端会議というくだり。
超人用の宿屋を切り盛りするタイジの母は、横の椅子に座った小柄な猫族のご夫人、つまり名誉勘当をされたサキィの母親、サキ夫人に、持ち前のおばさん語りで話しかけた。
「ウチの子が駆け落ちまがいのことを…お宅のご子息からお話聞いた時は、この耳を疑いましたよ!あんなグータラのごくつぶしドラ息子が、中央国の魔術師学生さん方と一緒に旅をするだなんて!」
「ホントにすいません」サキィの母というからには、相応の齢を重ねているにも拘らず、この息子とは亜人の属性が一致しているだけで、他に似ている要素もない、まるでいつまでも枯れ朽ちることのない可憐な一輪の小花のように清楚でおっとりとした夫人は「うちの子が…きっと、また何か悪いことをしているんでしょう。本当に申し訳ありません」
「なーにを、おっしゃいますか!」タイジの母はガハハハと横柄な態度を取って「ウチのタイジの方が、きっと皆さんに迷惑かけているに違いありませんて!家を出て行くなら、ちゃんちゃんと面と向かってあたしに挨拶すりゃいいものを!人を伝書鳩みたいに使いおって…ええ、お宅の素晴しい剣士さん、ほんとに立派なご子息をお持ちになって…朝早くにウチの宿に来て、魔術師学生さんたちに言い渡されて荷物の整理と、あの馬鹿息子が戻らないことを、丁寧に私に説明してくれてねぇ。まさかあの子達と一緒だったってのは、最初ちょっと驚いたんだけど…でも、彼の剣の腕があれば正に恐いものなし!あたしゃぁ、よく知ってるからね!今までだって、ウチに泊まりにきてくれてたこともあったんですよ!多分、魔術学生の一座を取りまとめていたマナちゃん…あの子も、素晴しい女の子よ…それとウチの馬鹿からの繋がりで、助っ人を頼んだんだろうね。あのデニス君なら安心よ!私が『試練はどうだったの?』って聞いたら『無事に終わりました!そして俺たちはすぐに中央国へ向う必要があるんです』って言ってね。それで私が『少し休んでいったら?皆さんも疲れているでしょう?そんなに急ぎ足で大丈夫かぃ?』って留めようとしたんだけど『大丈夫だ、問題ない』って答えてね。ホントに、良い息子さんを、あなたは持ちましたよ!」
けたたましいタイジママの喋りに、しかしサキ夫人は口もとのささやかな弓なりをそのままに、あくまで清らかに楚々たる口調で答えた。
「あの子は、もうウチの家の子ではなくなりましてよ」
「あらっ!」一際やかましい驚嘆を発するタイジ母「そそそりゃぁ、また!なんでだい!?」
「主人が、あの子を勘当致しまして…いえ、そんなに大事ではありません。もともとあの子も家を出たがっていたし、家業を継ぐことを頑なに嫌がっていて…二十も半ばになっていつまでも職無し風来坊でしたし…そのことで主人と、しばしばいさかいを起こしていたのですが」猫人の夫人は芳しい香り立つお茶を、丹念に丹念に、ふーふーと冷ましてから、小さな獣の口にカップを触れさせ、ほんの一滴口に含み、下を潤してから「先日、二人はとうとう和解をして、正式に我が家から除名を致しましたの」
「あらあらぁ、そうだったの」
「主人は別れ際に、最高の一振りをあの子に渡したわ。世の為、人の為に生きろだなんて言って」くすりと笑う。まるで丁寧に設えた花壇の片隅で、風に揺れる壊れやすい花弁のように。
「でも、じゃあお家はどうするの?あの立派な鍛冶屋…」
「ええ、弟のサイモンが継ぐことになってしまいましたわね」サキィの弟サイモンは、兄よりも一回り年下で、まだ学生であった。「サイモンもね、兄のような奔放な生き方を望んでいるみたいだったんですが…どうも、あの子は旅に出ては行けないという強い占星術の結果が出ていて……小さい頃に縁あって高名なジプシー?と仰いますの?そのお方に占ってもらったんですけど、この城下町より離れること…特に北もしくは北西には致命的な凶星が出ているとかなんとかで……わたくし、占いのことはよくわかりませんが、とにかくそんなわけで、あの子も兄に言い渡されてね…家を継ぐように、と」
「まぁまぁ、そんなことが…」
「サイモンにとっては勝手な話かもしれませんが、あの子は昔から逆らいません。従順に、運命を受け入れるように、兄を見送りました」
二人の子を持つ女は、一時唇を結んだまま、静かに、いなくなった息子達のことを思った。
子はいずれ、親の元を離れる。
男の子はいつか、母親の手を離れていかねばならない。
母にさようなら、父にありがとう。
その時が来たのだと、二人の母はなんとはなしに己にこの訣別を浸透させた。まさか、本当にもう二度と戻らないとは知らずに…。



「……かし、やっぱ怪しかったかも」
黄昏の街路を歩き、タイジの母は宿へと帰ってきた。そこで、長男が休憩中の使用人相手に話をしているのを目にした。
「おいおい、何こんなところで油売ってるんだい?夕食の仕込みは済んだのかい?」
「ああ、おふくろ」長兄は主の帰宅に気付くと「いや実はね、おふくろが留守にしてる間に変な客が来たんだけど…」
「変な客?」タイジママは怪訝な顔をして聞き返す。
「変……ていうか、妙なっていうか…とにかく、旅装してたから多分、旅の輩だと思うんだけど。顔はすっぽりフードに隠れてよく見えなかった。子供みたいな背格好の従者を三人連れて…もしや盗賊の類かなって思ったんだけど、声は意外にもすっきりした女でさ」
「若旦那が言うには、気配も無くふらりと突然現れ、宿にも泊まらず、二三、調べまわるようなことをして去っていったそうで」使用人の一人が話を繋ぐ。
「調べまわる?」己が根城を探索されて不愉快といった風な顔をして「そいつら、何か盗んでいったのかい?あるいは産業スパイ…」タイジの母は問い詰めた。てっかりした顔が夕陽に染まっている。
「いや、しっかり見てたよ、俺が」と長男「格好は怪しいけど、そんな悪い集団にも思えなかった。ただ、何がしたかったのかは分らないな。宿のあちこちを案内されて、何かを探してる…う~ん、嗅ぎまわっているようでもあったけど」
「なんだい、そりゃ!あたしがいったらとっちめてやるところだったよ!」
「でも、特に何をしたってわけでもなかったな……そういや、セイジのことを聞いてきたな」
「セイジの?」母親は行方知れずになってからもう何年も経つ次男坊の名を聞き、俄かに驚いて「あの子の消息を尋ねるなんて…もしかして王宮の料理場の人間だったんじゃない?」
「いや、料理場の人間にしては気配が落ち着きすぎてた。あんな達観した雰囲気は包丁を生業とする人間にゃ出せないもんだよ」
するとタイジの母は、もうこの話は埒があかないと感じたのか「そこがあんたのまだまだ未熟なとこなんだよ。いいかい?一流の料理人は石清水のごとき静謐さを放っているもんなんだよ」切り上げるように「分ったら、さっさと厨房に戻って、あんたもあのいなくなった放蕩息子ぐらいの包丁さばきが出来るようなりなさい」
「ちょ、おふくろぉ」
こうして、タイジの生家には今まで通りの、凡庸たる日常の連続という幕が下り、繰り返される同じ日々の景色の中に舞台を還元していった。
この時、太陽の天女コハクは、また一つ手掛かりの可能性を潰されていたが、彼女の心が焦慮に駆られるようなことは終ぞ無かった。
時間はたっぷりあった。
彼女には、たっぷりと…たっぷりと…

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